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私になりたかった私 #1 「プロローグ」

     ☆プロローグ☆ 

 疲れが溶け出して、手すりを伝い体の中から出て行けばいいのに。きっとタールみたいにまっ黒でどろどろに違いない。
 
 私は手すりに体をあずけて座っていた。
 深夜の中央線は若者やサラリーマンで混み合っていた。
 目の前では大学生くらいに見えるカップルが汗ばんだ体を密着させ、ひそひそ話をしている。
 私は見るともなく、女の腰を這う男の指先を見ていた。
 このまま眠れたらいいのに。となりで鼾をかいている鷲鼻のオヤジみたいに。
 家で寝られるのは3日ぶりだ。
 それでも寝られるかどうか、私は自信がない。


 今日、生放送は大失敗した。
 私は番組のフロアを任されていた。

 フロアというのは、どのカメラで撮影しているのかを出演者に知らせたり、カンペを出したりして、生放送やスタジオ収録がスムーズに進むよう進行する仕事だ。
 カメラから身を隠し、音ひとつ立てないようにと気を遣う、そして何か問題があればまっさきに怒鳴られる、そんなハードな役回り。
 特に生放送は緊張の連続だ。
 そして出演者が悪いと、最悪である。

 今日の出演者はその《最悪》だった。
 女優の佐藤紅子だ。
 数年前まではあちこちのドラマで見かけたが、最近はたまに情報番組のコメンテーターとして見かける程度の40過ぎの個性派女優である。

 私は佐藤のファンだと公言していたので、この仕事を任された。
 ワクワクして挨拶に行ったら、佐藤はとんでもない女だったのである。
 私を含め、自分より若い女性が話しかけても見向きもしない。それなのに、番組の担当者である私の上司の小野さんと話すときは声が1オクターブ上がる。
 ちなみに、小野さんは私より4歳年上の31歳。無精ひげなんか生やしたりしてワイルドな雰囲気を醸し出そうとしているけれど、その優しい目元から黙っていても育ちの良さが伝わってしまうようなイケメンである。

 生放送が始まったら始まったでトラブルの連続だった。
 事前に渡しているにもかかわらず、佐藤は台本の流れがまったく入っていなかった。
 カンペを探して目はキョロキョロするし、台詞やタイミングを間違える。
 最終的には番組終わりに台詞が収まらず、尻切れトンボの放送になってしまったのである。

 終わった途端、現場はしんとなった。
 他のスタッフも、現場にいたカメラマンたちも、彼女のせいだということは分かっていたと思う。
 それを感じ取ったのだろう。なんと佐藤は泣き出したのである。
 先手必勝! とでも言わんばかりにキーキーとヒステリックに叫びながら、全部フロアを担当していた私が悪いと訴えた。
 カンペの字が小さくて読めなかった、キューを出すタイミングが悪かった、などなど。

 何か言わなきゃ。心の中では叫んでいても、私はあまりに理不尽な言われようにただ呆然と固まったままだった。

 副調整室から飛び出てきた小野さんに、フロアで補佐をしてくれていた同僚のディレクターの中山さんが状況を説明してくれた。
「本間さんはちゃんとやってましたよ」
 それを聞いた小野さんは佐藤に反論してくれると思った。今回のフロアを任せてくれたのが他ならない小野さんなのだから。
 だけど、小野さんはいきなり佐藤やプロデューサーたちに頭を下げたのである。
 私は唖然としてしまった。

 佐藤は頭を下げた小野さんを満足そうに見下ろしていた。そしてスタジオから出て行く時に何を思ったのか、ハイヒールをカツカツ鳴らしながらスタジオの隅に立っていた私に寄ってきた。何も言わずに口に手を突っ込み、その手を「ん」と私に差し出した。

 ADの習性で反射的に受け取ってしまった私は、その感触にビクッとした。
 そおっと手の平を広げてみると、それは佐藤の噛み終わったガムだった。その薄い緑色の物体は佐藤の唾液が絡まり、私の掌の真ん中にへばりついていた。

「この子、もう使わないで」
 佐藤は振り返ってスタッフたちにそう言うと、勝ち誇ったように私を睨みつけてから出口へ向かって行った。

「すみませんでした。今度はベテランを用意しますから」
 慌ててプロデューサーたちが佐藤を追いかける。
「もお、約束ですよ―」
 私と話す時とは別人のような甘えた声が聞こえた。

「手、洗ってきなよ」
 そばで小野さんの同情を含んだ声が聞こえたが、私はその時、顔を上げられなかった。目玉が痛むほど、涙を堪えていたからだ。


 中野駅に到着することを知らせるアナウンスが流れ、前に立っていたカップルが扉に向かった。
 その時、女の足が思い切り膝に当たる。
 頭上から女の舌打ちが聞こえた。

 その女の舌打ちが合図になった。
 私は涙を抑えることができなくなった。
 他の乗客に見られないよう下を向き、涙を拭う。
 けれど拭っても拭っても涙は止まらない。思わずしゃくりあげてしまう。

 こんなに頑張っているのに、まだ足りないのか。
 同期はみんな辞めてしまった。
 友達の誘いにはいつも行けない。
 それでも叶えたい夢があった。
 そのために色んなことを犠牲にしてやってきたのだ。
 それなのに虫けらのように扱われる。
 見向きもされない。
 そんな自分が情けなかった。

「土橋君? 大森です」
 その時、私は女の声を聞いた。
 低く、落ち着いた声だ。
 気付くと先ほどのカップルがいた位置に喪服姿の女が立っている。

 数人の乗客が、電話を始めた女の方を迷惑そうに見た。
「急に仕事、辞めることになって、お別れが言えなかったから……私、本当はお好み焼き屋、すごく行きたかった。でも……」

 私は眠い目をこするふりをして上目遣いに、女の顔をそっと窺った。
 長い髪がかかり、顔はよく見えない。
 すっと通った鼻筋と血の気のない唇が髪の合間から見えている。
 携帯電話を持つ右手の手首には小さな痣がある。

 女の携帯電話には大きなお守りがぶら下がっていた。
 手製のようだ。フェルト生地で『お守り』の文字が縫ってある。
 形はいびつでステッチも揃っていない。
 お守りは電車の振動に合わせ、ゆらゆらと揺れている。

 私はその不格好なお守りをじっと見つめた。
 なんだか懐かしい気がした。
 そうだ、父がアフリカへ出張に行くとき、作ったことがあったっけ。
 母と近所の手芸用品店に材料を買いに行った。
 そのお守りに似ているのだ。
 父は嬉しそうに受け取ってくれた。
 よく日焼けした父の目元に寄る笑い皺が私は大好きだった。


 父のことを考えると、私はいつもあるテレビ番組を思い出す。
 さまざまな動物の生態を取り上げる番組だ。
 特にエンディングで流れる映像が気に入っていた。
 壮大な夕日をバックに象の群れが悠々とサバンナを歩いている映像。
 それは父が撮影したものだった。
 小さい頃、父の膝の上に座って自然番組をたくさん見た。
 父は冷え冷えの瓶に入ったコーラが好きで、テレビを見ながらよく一緒に飲んだ。
 コップを同時に口元に運ぶと、母がよく笑った。


 揺れるお守りを見ていると、私はだんだんと気分が楽になってきた。
 顔を上げ、向かいの車窓を見ると、小さな笑みを浮かべた自分の顔と前に立つ女の背中が並んで映っていた。


(つづく)私になりたかった私 #2 「あゆみ」はこちらから。


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