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睡眠中の自分の感覚を描写しようとして目が覚めてしまう話

 医者で睡眠障害(概日リズム障害)と診断されてから、寝る前に養命酒をプラスチックのコップ三分の一ぐらい注いで飲んで、スマホにイヤホンを繋いで睡眠導入音を聞くのが習慣になっている。基本的にいつもは自然の清流のような音を聞いて寝入るのだけども、寝る前にいつもかけている入眠音を、今日だけ人工的な音にしてみた。そうしてしばらく目を閉じていたけども、頭の後ろがこそばゆいような感覚で、何となく持続して目が覚める。無職になってから、むしろ働いていた頃より周囲の光景に意識が動く感覚が明晰になった。そうすると、一日自宅で寝て過ごしているだけで、朝から晩までの自分の行動が自分の視界に入ってくる。この感覚が何故か、普通に生活しているだけなのに、周囲の世界から物凄く自分の生活を意識させられて、無理矢理見せられているような気分になるのだ。それでnoteを始めた。そのいきなり変わった感覚でもってして、数日続けてnoteに載せる長い文章を書くようになったら、何日か続けた後、無職でありながら、日中非常に疲れるようになった。大学卒業後、心理職の国家試験の受験勉強をしていた時期も、勉強後に似たような疲れを感じたけども、勉強中は日中の自分の行動を完全に忘れて没頭するし、寝る時はその疲れですぐに眠ってしまうので、受験勉強というのはおそらく私以外の誰にとっても現実逃避になるのである。しかし、エッセイを書くというのは、書いた後に体力を消耗していながら、書けば書くほど自分の行動に対する見解が積み上がっている状態なので、疲れている状態でありながら、ますます自分の日常生活に対して意識が覚めている状態になっているのである。その感覚で食事をしたりお手洗いで用を足したりすると、自分の行動全てが自分の視界に鮮明に入って来て、しばらくその明晰な感覚で過ごすのだけども、その感覚のまま体力を消耗すると、自分が疲弊していく瞬間まで見えるようになる。何であれ、とりあえず疲れているのは間違いないので、よく昼寝しようとするのだけども、自分の生活についての文章を日常的に書いている状態で、しかもそれがまだ最近始めたばかりだと、昼寝しようとしても、冴え始めた感覚だと自分の寝返りさえ一つの出来事だと気がつき、その瞬間目が覚めてしまう。眠れないというより、そもそも意識が常にずっと起きているような感覚があるので、よっぽど物理的な肉体的疲労が溜まるか、もしくは睡眠薬を使わないと入眠出来る感じがしない。前述した通り、毎晩寝る前に養命酒を常飲しているけども、日中から常に覚めている感覚は寝る直前どころか、何とは無しに寝ている最中まで続いている感覚があるので、少し酔っても、飲んだ瞬間から自分で酔いを覚ましていくような気がして、最近あまり意味が無くなってしまった。それでも体は疲れているので、夜になり布団に入って寝ようとする。だけども、目を閉じても、入眠する瞬間のことまで気がつき、昼寝の時と同じくそのまますっと目が覚めてしまう。
 無職でひたすら文章を書くようになって、生まれて初めて、自分の日常が全て自分のものになった。自分が何をしているか全ての瞬間で分かること知ることが出来るまでの余裕を与えられ、文章を書くことによって達成することが出来た。それこそが私が最も望むことである。働いてお金を貰う以上に、社会的地位を得る以上に、自分の人生を生きる権利をフルで活用できているという充足感が得られる。非正規雇用で一人暮らしをしていた頃、元々一人っ子で二十代前半まで親元にいた私は、経済的に独立して働いている生活日々を非常に誇りに思っていた。東京の中心の職場で、集団の人間関係の中に自分を見つけて、社会で働く人がよくやるように、私もまた対外的な自分を作って振る舞って。とはいえ、多忙な飲食の裏の仕事だったので、他の都内の勤め人と違って、社会化された自分を極端に要求されない場所でもあった。そういう職場のその働き方で数年経過してしまうあたり、今の無職生活に完全に適応してしまう自分の本質はその頃からあったのだと気付かされる。今、現状無職であるため、年金の支払いを始めるタイミングで、一つの区切りとして、一応非正規雇用でも働くというつもりで今考えている。しかし、この先働き始めたら、一日だけの日雇い単発のアルバイトでも、働く私は今までの私ではない私として働くだろう。今まで、体を動かして、人当たりの良い人たちと一緒に働くことが良いことだと考えていた。でも今は、働いてお金を貰うというのは、自分の日常を感じる日々を獲得するために過ぎない。感覚としては専業主婦の小遣い稼ぎのアルバイトに近いのかもしれない。こういうわけで、どう働こうか、以前の働き方全てを思い出して色々考えみても、これからは働く時の自分は、今までの働いている自分とは完全に別物である。要するに、もう以前のように、働き始めるて自分の日常を差し置く社会的な自分になるということが無い。以前は非正規雇用でも、働いていた企業の社会保健に加入していて、それがある種のその頃の自分の証明というか、一人でも問題無く生きていた身分証明になっていたとは思う。しかし、無職作文生活になってからは、いつか自分が会社の保険証を使って生活するだなんて想像がつかない。集団の中で働くことから一年以上完全に離れ、しかもその集団の中での仕事も、かなりしっかり自分の仕事の配分が決まり切った肉体労働だったため、一日他者の感情に向き合う必要のない日が数日連続することもしばしばあるような多忙な飲食店であった。毎日毎日、あまりに鮮明に目に映る自分の生活を文章に書く日々になったら、特に何かを目指したりする必要は無く、日常こそが完全であるであるという、今まで感じたことが無い感覚になった。もっと言うと、日常を完全にすることが大事、という感覚である。与えられている日常こそが、私の宝であり資産である以上、その自分の資産を全て自分のものにするべきだ。そう考えると、私にとって一番正しく、幸福とも言えるのは、ひたすら日常という財産を確認する作業が出来る環境を得ている状態である。生まれて初めての感覚に変化し、自分が眠ろうとしているこの瞬間さえも自分の財産であると気がついてしまうと、横になっても永久に眠気が訪れる気がしない。朝、目が覚めた時に、自分が眠っていたことを知るだろう。

31歳、実家暮らしアルバイト生活の、一人っ子のノンセクシャル女性😼😽 日記、エッセイ、時折評論です。 ひたすらこつこつ書き続けていくのでよろしくお願いします。