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ミルクの森で⑤

5.存在証明

一時退院の予定日に病院に向かいます。
父親は朝から張り切って、家の掃除をはじめ、後から合流することになっていました。

いつもの病室に行くと母の姿がありません。

僕が困惑していると、やがて若い主治医と看護士がやって来て、事の顛末について説明を始めました。

①今朝、一時退院のために検査したところ、著しく腎臓の数値が悪化している。

②お母さんは危険な状態にあるため、緊急的に処置を施し、別の病室に移動してもらった。

③腎臓病の専門医が常勤していないため、原因については当病院ではわからない。

④隣町の赤十字病院には、専門医が常駐しているため、そちらに転院してくれないか?

⑤救急車は手配したので、今から荷物を持って、家族の方(つまり僕)が同乗してくれないか?

医者の説明を聞きながら、僕の頭の中には一週間前の光景が蘇ってきました。

おそらく母の体調は、あの時すでに悪化していたのです。それで苦しくて、寝ているしかなかったのです。

本来であれば、もっとも母の立場になって、寄り添ってあげるべき時に、僕は医者の言うことだけを信用して、母に責めるような言葉をぶつけてしまったのです。

新たに与えられた病室に入ると、母はベッドの上で寝ており、体にはたくさんのチューブが付けられていました。

それはまるで、萎みかけている風船に無理やり空気を入れているかのように見えたのです。

年輩の看護士は「よくあることなんですよ」と言って、慰めてきました。

バカなことを言っちゃいけない。

①それが10回に1回だろうが、100万回に1回だろうが、確率の話はどうでもいいのだ。

②楽しみにしていた一時退院の予定日当日に、容態が急変し、転院するようなことは、少なくとも僕の大切な家族には、起きてほしくないのだ。

③そもそも、あなた達は日常的に母と接していながら、なぜ病状の変化に気付かなかったのだ。

看護士にその旨を伝えると「あなたのお気持ちはよくわかります」とでも言うように、小さく頷いていました。

僕は荷物をまとめ、ベッドの上で意識が朦朧としている母に語りかけます。

「行くよ、母さん。ここから出て行こう。」

救急車はけたたましくサイレンを鳴らしながら、国道105号線を南に走りました。
沿道にある小さな家々は、石のように沈黙しています。

「神様。今こそ、僕たち家族を助けてください。」

僕は心の中で祈っていました。

「さもなくば、あなたは存在しないのと同じだ。」

(『ミルクの森で⑥』へ続く)

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