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ミルクの森で③

3.無辺な夜の闇の中で

他人の夢の話なんて、退屈なことの方が多いものです。

非現実的で脈絡もなく、混乱していて、まったく実用性に乏しい。

ただし、それが病人の見た夢の話となると、まさに「話が別」であり、聴く側はきちんと居住まいを正して、その言葉に耳を傾けなければなりません。

母は市立病院に緊急入院し、しばらくは「予断を許さない」状況が続きました。

一時期は会話をすることも困難で、生死の境を彷徨してきたようですが、やがて治療の効果が出始め、1ヶ月ほど経過すると腎機能の数値も改善し、正気を取り戻しました。

ある日の仕事終わりの夕方。
病院に見舞いに行くと、母は僕の目をまっすぐに見つめ、真剣な表情で、昨夜に見た夢の話を始めたのです。

母は、夢の中で四角い大きな箱に閉じ込められていました。

「そこは本当に暗くて、とても静かで、少しの音も聞こえなかったんだよ。」

母は怖くなって、大声で父を呼びました。

『父さん、父さん!助けて!』

しかし、その声からは本来の「響き」が失われ、暗闇と静寂の中に飲み込まれていったそうです。

「その箱の中で、本当にひとりぼっちだったんだ。」

母はうつ向いて、悲しそうな顔をして言いました。

僕は「もう大丈夫だよ」と言い、母の手の上にそっと自らの手を重ねます。

窓の外を見ると、そこには今日の分の夕闇が迫っていました。

「大丈夫、大丈夫」

ひとつは母親に対して、もうひとつは僕自身に向かって、そう語りかけました。

人の心は時として、深い暗闇に包まれてしまうことがあります。

あらん限りの力で振り絞った声さえも、むしろ虚ろに響くのです。

無辺な夜の闇の中では。

(『ミルクの森で④』へ続く)

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