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あの時は、あれだけ話すことがあったのに

せっかく何か書こうと思いついたのに。そもそもメモを取る習慣がないから、書こうと意気込んだ時にはすでに忘れていることが多い。
中学生や高校生の時とは違って、誰かと他愛ない話で盛り上がることも、もうなくなってしまった。だからこそ、他愛ない文章を書いて、誰かに頷いて欲しかった。なのに、泡のようにぷかっと浮かんでは一瞬で弾けるから、文章がちっとも貯まっていかない。

だけどふと思う。当時は、なんであんなに盛り上がることがあったんだろう。
授業と授業の間の休み時間。ほんのわずかな時間しかないのに、隣のクラスまで行って友達と先生が来るまで喋ったりした。
給食の後の少し長い休み時間。仲良しの子達と時間尽きるまでおしゃべりしたし、職員室まで先生にちょっかいかけに行ったりした。
授業が終わって、放課後。誰もいなくなった教室が並ぶ廊下の端っこで、吹奏楽部の音出しをBGMに、座り込んでいつまでもおしゃべりした。
先生に早く帰れって怒られて、渋々校門へ。帰り道だって話が尽きることはない。先に着くどっちかの家の前で、また永遠におしゃべり。家の人が帰ってきて、「いつからそこにいたの。」って驚かれるまでがセット。
めっちゃ喋ったねって笑いながら言い合って、「また明日ね。」って言ってバイバイする。

そう、また明日も会えるのだ。

今日が最後ってわけじゃない。どっちかが転校するって話ならまだしも。昨日だって会ってるし、ちゃんと明日だって会う。それなのに、なぜか話題は尽きないのだ。不思議なことに。

だけど、当時何を話していたのか全く覚えていない。それだけ盛り上がる話題なら、1つぐらい覚えていてもいいだろうに。
頭の中で上映される過去の映像は、相手の子がケタケタと笑う顔と、当時の風景だけ。それに、音声は入っていない。
ただ、なんかすごい話してたなって、それだけ。

ちなみに、当時仲良くしていた子達の中で、今でも会っているのはたった1人だ。ずいぶんと減ってしまった。悲しいことなのかもしれないけど、そんなもんって受け入れている自分。大人になるってこういうことか。
どこかで偶然会っても、きっと気づかないだろうな。もし気づいたとしても、どこかよそよそしい空気が流れるんじゃなかろうか。その空気感を想像するだけで少しゾッとする。
あの、懐かしい人に会った時の「久しぶり」から始まる小さな沈黙ってなんだろう。自分だけ?
それに、今でも付き合いのある1人とも、当時のように話が尽きないのかと言ったら、そういうわけではない。
この間、必死に話題を探している自分がいて、ほんの少しだけ寂しくなった。それには少し、寂しくなってしまった。
お互いがいる環境が違うから、共通の話題がない。好きなものも趣味もそれぞれだから、やっぱり1つの話題で盛り上がることもない。
そう考えると、同じ教室で、同じ授業を受けて、同じ時間を共有できていたこと、それはすごく楽しくて、尊い時間だったんだなって、改めて思う。
あぁ、楽しかったな。どうでもいいことで窒息しそうになるぐらい笑って、嫌いな先生の悪口で盛り上がって、定期テストにうんざりして、その他エトセトラ。
頭の中の過去の映像に音声が戻ることはないけど、そんな共通の話題で盛り上がってた。
もう2度と戻らない瞬間が、唐突に愛おしい。

そういえば、話すだけじゃ事足りず、手紙のやり取りもしていた。授業中、先生の目をかいくぐって、ノートの下に、手紙を書くためのルーズリーフを隠していた。ペンケースに大量に入ったカラーペンで彩られた手紙を、例の折り方で折って、休み時間に渡すのだ。それだって、きっとくだらない内容がびっしりと書かれていた。うん、懐かしい。懐かしいけど。
いやいや。どんだけ話すことあんだよ、って今なら思う。あんだけ話して、なおかつ手紙。しかも1日に1往復とかじゃない。次の休み時間には、また返事が返ってくるからだ。そしてそれにまた書く返事…。

なんかもう…むしろ怖い。

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