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母の声

父と喧嘩して家を飛び出したのは、1か月前のことだ。正規職に就いているから、家を飛び出したところで生活に何ら支障はないのだけれど、置いて来た猫2匹が気がかりで、結局、家の近くのマンスリーマンションにいる。彼氏のマンションに転がり込めれば猫を連れていけるのに、間が悪い。彼は骨折で入院中だ。

出勤途中に見上げれば、久しぶりに雲のない澄んだ青空が広がっている。夏のカンカン照りに比べれば、太陽はずいぶん遠くに感じるのに、それでも、直射日光にクラリとしてしまう。ふっと自分が遠くに行ってしまう感じがする。手も足も普通で、ちゃんと歩けるのに、気持や魂というか、内側の物だけが抜けた感覚だ。

会社の席に着くと、いつもの自分に戻っていた。精神か、頭に異常でもあるのだろうかと心配になる。それとも、父と猫たちのことでストレスが溜まったのかもしれない。

仕事終わり、更衣室に行くと総務の川越さんがいた。他に誰もいなかった。川越さんは同期入社だけど、おとなしい感じで、個人的に話したことは少ない。川越さんの隣に並ぶと、少し緊張した。

「お疲れ様です」

川越さんは挨拶を返すことなく、じっとこっちを見つめた。驚いている顔をしている。

「何か……?」

「今朝から、調子おかしくない?」

「今朝?そういえばちょっと日光でくらりとして」

「お母さん、来てるよ」

どきりとする。

「……お父さんと仲直りしなさいって」

「何言ってるんですか。母はもう」

「じゃ。頼まれたことは伝えたから」

川越さんはロッカーの鍵を閉めて、更衣室を出て行った。

そんなはずない。そんなはずない。

だって、母は半年前に他界した。

私が忌引きで休んだことを川越さんは知っていて、だから、だから……何?それを私に言って、川越さんにはなんの得もない。それに、父とのことまで知っていた。

マンションに戻る前に、家を覗いてみる。父の車がある。夕闇の中に、垣根越しの家には明かりが全くなかった。玄関の鍵は閉まっている。お腹を空かせているのか、猫の泣き声が響いてきて、嫌な予感に押されて私は家の中に飛び込んだ。

「お父さん!」

返事がない。居間にも台所にもトイレにも二階にもいない。猫が窓の外に向かって鳴いている。窓の先の庭に、じょうろを握った父が倒れていた。

父は心臓発作を起こしていたが、幸い一命は取り留めた。近くに住む母の姉である伯母が病院に駆け付けてくれた。

「今朝ね、久しぶりに恵子が夢に出てきて、有里、有里って、あなたを呼ぶから、心配してたのよ」

私には霊感なんてない。涙が止めどなくぼろぼろ落ちてくる。母は常に家族に気配りをしてくれる人だった。猫たちも母に懐いていた。

家が静まり返る、ってこういう状態なのだと思う。軋みも冷蔵庫のモーターも、猫のか細い声も、あらゆる音が、静けさを際立たせる。一年前には家族と猫の声が入り混じっていたはずなのに。家族に悪態ついて、叱られて、そんな風景が当たり前にあった場所だったのに。

「お父さんも、有里もつまらない意地張らないの」

ぶつかり合う父娘に、母は呆れ顔で言っていた。猫二匹が足元に纏わりついてくる。餌皿にカラカラとフードを盛って床に置くと、二匹は夢中で顔を突っ込んだ。仏壇にはいつも通り、母の微笑んだ写真がある。

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