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もう、家に戻らなければならない。夫はまだにしても、娘は帰宅しているかもしれない。まりは仕方なくダイニングチェアから立ち上がった。すっかり手に馴染んだマンションの鍵を回して外に出た。秋が深まり、だいぶ寒くなった。まりは大判のショールを体に巻き付けて、とぼとぼと歩き出す。

タクヤはまたあの女に捕まっているのか。そう考えると、まりの中で抑えていた苛立ちがむくむくと勢力を盛り返してくる。タクヤがまだ役者志望だった10年よりもっと前から、まりはタクヤのご飯を作り、出演作のチケットを売りさばき、地方公演にも同行した。タクヤが役者として人気が出たのも、自分の力があったからに違いないと、まりは自負している。

タクヤは地方を拠点としている劇団の看板俳優だ。鍛えた体と、30代に突入してからは色気も増して、大勢の女性ファンもついている。まりがタクヤを知ったのは、小学生だった娘と一緒に劇団の公演を観に行ったときだった。ステージにすら上げてもらえないタクヤは、入り口に立って客の対応をしていた。座席が分からなくて案内してもらったのが始まりだ。タクヤは卵型の顔に、笑うと口角がきゅっと上がり、優しい穏やかな半月のような目で、まりに微笑んだ。まりはそれからタクヤ目当てで劇団に通い詰めた。まりの夫は仕事人間で、まりの外泊なども「推し活動の一環」としか感じていない様子だ。

まりは専業主婦の身だから、金銭を貢ぐに限度はあるが、タクヤの服や髪型をコーディネートし、セリフの言い回しや所作もアドバイスした。くたくたのTシャツばかり着て野良猫みたいだったタクヤを磨きに磨いた。

とし子が現れたのは、昨年のことだ。「若い女ができた」と言われたほうがまだましだ。とし子は60手前で、たっぷり肉がついていて、ガハガハ笑う雑な女だ。とし子はタクヤの傍にいる女を、ハエでも追っ払うように遠ざけた。その上、若い女のファンには、半径2メートル以内には入るなとか、ファンレターは月に一回だけ、とし子経由で渡すこと、抜けがけはしないことなど、勝手にルールを設定しだしたのだ。

まりの姿を見つけると、とし子はタクヤを連れて、どこかに隠れてしまう。この前は「これ以上ストーカーするなら通報する」と脅しにも掛かられた。

タクヤは「とし子がいるからファンの統制が取れている」とまりに我慢するようにと手を合わせた。

「まさかだけど、むこうと寝てないよね?」

「まさか。俺、女はまりさんだけだから」

そんなはずない。タクヤの周りには、選んでも余るほどの女が集っているのだ。タクヤは欲望を制御できるほど硬派じゃない。迫られればそれまでだ。ある程度の女遊びには目をつむる。でも、とし子だけは許せない。

まりのバッグの中には、タクヤの部屋の鍵がある。部屋に女が入った痕跡はない。だから、たぶん、鍵はまりしか持っていない。鍵一本で、まりはタクヤと繋がっている。


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