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かみ砕く【短編】

 氷を無性に齧りたくなるのは、鉄分が不足しているかららしい。
 冷凍庫からロックアイスを一つ取り出し、私は口に放り込む。奥歯でかみ砕く。ガリガリと音を立てながら。頭蓋骨が振動する。そして、冷たさが頬の内側、舌の上に広がっていく。頭が冴えていく。頼りない上司の姿が浮かぶ。いっそ消えてくれたらいいのに。願いを込めて、力強くかみ砕いてやる。粉々になった氷は、私の熱で消えていく。吸収される。消滅する。
 ままならないよ。思った通りには行かない。だって、神様じゃないし。
 声にならない呟きを胸に、私は、もう一つ、ロックアイスを口に放り込む。今度はかみ砕かずに、ゆっくりと舌先で転がす。冷たさが正気を思い出させてくれる。じわじわと消えていく氷。
 私の熱で、氷は簡単に姿を変えてくれる。吸収されて行く。私のモノになってくれる。支配している。
 実際の私は支配されている。それも、つまらないモノばかりに。つまらない仕事、つまらない暮らし、つまらない男に。
 つまらない男だ。あの男は。爽やかで清潔感があって笑顔が可愛らしくて、誰からも好かれるタイプだけれど、実際は、本命の彼女がいるのに、私の部屋の冷凍庫にロックアイスを置いていくような男。
 遊ばれているとわかっているのに、関係を断ち切れない私もつまらない女だ。
 私だって、白昼堂々と手を繋いで歩きたいし、仲良しの友人に紹介されたい。
 会うのはいつも夜だ。人目を気にして外出は滅多にしない。この部屋で過ごす。時間はいつも突然。愚かな私は、先に予定が入っていたとしても、そのつまらない男の為に、時間を空ける。部屋はいつもきれいにしている。自分自身だって。髪やネイル、肌の手入れは、いつも気を抜けない。
 もう、疲れたな。最近、時々、そう思う。そろそろ潮時なのかもしれない。
「ごめん、残業になって、今日は行けなくなった」
 数時間前に届いた彼からのメッセージ。わかっている。本当は残業じゃないこと。本命の彼女の元へ行くこと。最近は、もう、胸も痛まなくなってきた。
 私はソファに横になり、スマホの画面をタップした。SNSを覗くと、友人達の充実した生活ばかりが並んでいる。結婚しました。子供が生まれました。家族で旅行へ行きました。私はそれらの眩しく輝かしい生活に「いいね」を押す。私にとっては、ファンタジーの世界だ。そんなに幸せな生活が現実にあるなんて。どんなに手を伸ばしても届かない。
「水族館に行ってきました」
 イルカが泳ぐ水槽の前で、奥さんと三歳くらいの男の子と笑う男性の画像が目に入る。
 大学生の頃に付き合っていた彼氏である。元彼をフォローするなんて、気持ち悪いかもしれない。けれど、先にフォローをしてきたのはあちらである。だから、フォローバックしただけ。だけ。
 未練がないと言えば嘘にはなる。だって、初めてつきあった人だし。別れたのも、彼が遠く離れた土地に就職が決まったからで、嫌いになったからではないし。
 好きだったな。彼といるときの自分だって好きだった。
 彼といると、気持ちが安らいだ。気持ちに余裕があったからなのか、人に優しくなれた。何故、あんなにも気持ちが安らいでいたのか。それは、きっと、彼がありのままの私を好きでいてくれたからだと思う。だから彼といる時は、背伸びをしなくても、気取らなくても、無理をしなくても良かった。
 それに比べて、あのつまらない男といる時の私は嫌いだ。いつも背伸びをしているし、気取っているし、無理をしている。
 私はまた、ロックアイスを齧る。ガリガリと頭蓋骨まで響く音。鉄分が不足しているというよりも、私は砕きたい。砕きたい。砕きたい。粉々にしたい。
「残業なくなった。これから行ってもいい?」
 彼からメッセージが届いた。
「ふざけんな」
 そう返信出来たら、どんなにいいだろう。
「いいよ」
 勝手に動く私の指。
 そして、私は準備をする。いつものように、髪を整え、化粧を直し、いい香りのボディクリームを塗る。何て愚かなんだろう。馬鹿なんだろう。こんな自分が嫌いだ。嫌い、嫌い、嫌い。
「ごめんね」
 彼は部屋に入るなり、私に謝った。その「ごめん」は何に対してのごめんなんだろう。いつも振り回して「ごめん」。傷つけて「ごめん」。無理させて「ごめん」。
 でも、どうでもよくなる。彼の笑顔を見たら、すべて許してしまう。
「ううん」
 首を振ると、彼は私の身体を抱き寄せる。いつもの香りがする。彼は香水はつけていないと言っているけれど、いつも爽やかな香りがする。この香りを嗅ぐと、私は、正気を保てなくなってしまう。だから、私は、彼の首元に齧りつく。歯を立てる。かみ砕いて、やる。


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