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雨催い【短編】

 分厚い灰色の雲が白く光った。続けて雷鳴。降り出しそうだ。雨が。傘は持っていない。だから、私は足を速めた。待ち合わせ場所には、後十分。あの人の車が待っているはず。持ちこたえてくれたら、私は、濡れずに助手席へ座れる。一時間近くかけたメイクやヘアセットが台無しになりませんように。
 ヒールの音が私の脳をノックする。おいおい、正気ですかと。
 これまで、あの人が、私のメイクやヘアスタイルを褒めてくれたことが一度でもあっただろうか。雨に濡れたところで、きっと気づきやしない。あの人が興味があるのは、自分の事だけだ。私のメイクやヘアスタイルが雨で台無しになったことよりも、愛車の助手席が雨で濡れてしまう事の方が嫌なはずだ。
 私は、歩くスピードを緩めた。濡れたって別に構わない。むしろ、びしょ濡れの私を、どう迎えるのか見ものだ。私の予想通りだろうか。それとも、もっと、酷かったりして。びしょ濡れの私を置いて、猛スピードで逃げ出すかもね。
 再び、空が白く光った。雷鳴が続く。
 大切にされていないのは、とうにわかっていた。あの人は、私よりも大切な人がすでにいる。わがままで気が強くて振り回されてばかりだって、あの人はいつも愚痴を言う。私は、わがままも言わないし、気も強くないし、振り回したりもしない。それでも、大切にはされない。
 安物だったり、思い入れのない物は、丁寧に扱われないし、汚れたり壊れたりしたら、気兼ねなく捨てられる。でも高価だったり、思い入れのある物は、丁寧に扱われるし、多少汚れたり壊れたりしても、修理などして長く使われ、簡単に捨てられる事はない。
 私は安物で、思い入れのない物と一緒。丁寧に扱われない。簡単に捨てられる。それなのに。
 空が白く光る。雷鳴が鳴る。そして、雨粒が落ちて来た。アスファルトがみるみる濡れていく。私の頭も、身体も、脚も、容赦なく濡れていく。飲み込まれそう。私は、すぐ傍にあった喫茶店に飛び込んだ。
 ドアを開けるとチリンとベルが鳴る。コーヒーの香りが迎え入れてくれる。カウンター席に二人、テーブル席に二人、先客がいた。広くはない。昭和から使い続けているような照明やソファ、テーブル。長い時間、大切にされている空間だと一目でわかった。
「いらっしゃい」
 カウンターにいた店主が私に声をかけた。黒のベストに黒の蝶ネクタイ。黒縁眼鏡から覗く目はとても優しげだった。
 私は軽く会釈して、カウンター席に座った。そして、コーヒーを注文した。
 店主は注文を受けると、丁寧に豆を挽き、丁寧に淹れ、丁寧にカップに注いで、私の前に置いた。
「お待たせしました。どうぞ、ごゆっくり」
 丁寧に淹れられたコーヒーを一口。香ばしい香りが鼻を抜けていき、まろやかな苦さが舌に広がり、温かさが喉を通過する。
「美味しい……」
 私は思わず呟いていた。
 丁寧に淹れられたコーヒーはこんなにも美味しい。
 このコーヒーが、あの人の大切にしている人だったとしたら、私はさしずめインスタントコーヒーというところか。
 惨めだ。なんて惨めなんだ。
 カップに注がれたコーヒーの水面に波紋が一つ。私の目から零れ落ちた涙だった。
「そんなに美味しかった?」
 店主がそんな私を見て驚いている。
「はい。とっても」
 私は笑顔で答える。
 スマートフォンが鳴る。あの人からメッセージが届いていた。時間になっても来ない私に苛立っているようだ。今まで一度だって待ち合わせの時間に遅れたことなどなかったから。
「まだ?」
 ただ一言。
 私が雨に濡れていやしないかと心配などはしてくれない。
 私の事を大切にしてくれない人を、私が大切にする必要なんてないよね。
「今日は行けません」
 そう返信して、スマートフォンの電源を切った。
 大切にしてくれないあの人に会うより、大切にされたこの空間で、大切に淹れられたコーヒーを大切に味わう事のほうが、ずっと価値がある。


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