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夏みかんは知らない【短編】

 入道雲を横向きに見ていた。
 畳に寝転がり、開け放った窓から夏空を眺める。私の頬にはすでに畳の跡がついている。どれくらい、この態勢で過ごしていただろう。とにかく、今日は、何もやる気が起きない。夏バテというやつなのかもしれない。
 扇風機から送られてくる生温かい風が、私の前髪を揺らしている。自分で切り過ぎた前髪。これくらいの失敗ならいい。だって、前髪はまた伸びる。取り返しがつく。だけど、取り返しのつかない失敗というものもある。
 首元を汗の粒が滑り落ちていく。畳の網目に消えていく。このまま、溶けてしまいたい。畳に吸収されてしまいたい。
 横向きに見ていた入道雲から、オレンジ色のボールが飛び出してきた。それは、私の目の前に落ちて転がった。
 夏みかんだった。
「それやるよ」
 窓から顔が覗いた。近所に住む幼馴染のリツだ。最近、私の親友であるヒナと付き合い始めたばかりで浮かれている。
「ありがと」
 私は起き上がることさえせずに、礼を言った。
「おいおい、死んでるのか」
 リツは窓から部屋に侵入して来る。いつものことだった。
「死んでません」
「夏バテ?」
 傍であぐらをかき、私の顔を覗き込むリツ。
「たぶん、そうなんでしょう」
「元気出せよ。夏みかんでも食え」
「皮剥くのしんどい」
「しかたねぇな」
 リツは夏みかんの皮を剥き始めた。面倒見がいいのは、幼い頃からだ。そんなリツに私は甘えてばかりだった。だけど、もう、独り占めは出来ない。ヒナの彼氏なんだから。
 リツとは別々の高校へ進学した。それでも、家が近所だから、時々、彼は家に遊びに来ていた。ある日、私は高校で出来た親友のヒナを家に招いていた。そこに偶然、リツが遊びに来た。そして、二人は出会ってしまったのである。
 取り返しのつかない失敗だった。
「ほら」
 夏みかんの皮を剥き終わったリツは、私の口元に果実を近づける。
「そこに、置いておいて」
「夏みかん嫌いだっけ?」
「夏みかんは嫌いじゃない。後で食べる」
「あっそ」
 リツは近くのテーブルに夏みかんを置いた。部屋中に、夏みかんの甘酸っぱい香りが広がっていた。
「さぞかし、リツは楽しい夏休みなんでしょうねぇ」
 嫌味の一つくらい言いたくなる。
「まぁね。ヒナちゃんとは、一緒に花火大会に行くし、海にも行くし、映画にも」
「いいですねぇ」
「なんだよ。それですねてるのか?」
「はい?」
 正解だけれど、うぬぼれるなと言いたい。
「俺の友達で、お前の事可愛いって言ってるやついるんだけど、紹介しようか?」
「お断りいたします」
 悔しいけど、リツの代わりなんていないんだよ。
「じゃあ、俺と、ヒナちゃんと、三人で遊ぶ?」
 なんて無神経な奴なんだろう。腹が立ってきた。私は勢いよく起き上がり
「絶対いや。もう、帰って。これから、友達遊びに来るから」
 嘘をつく。
「友達?いいじゃん、俺いても」
「よくないよ。あんたは、もうヒナの彼氏なんだよ。他の女の子と遊んでたりしたら、嫌な気分になるよ。そういうのもわかんないの。最低」
 悪態をついてしまった。
「わかったよ。じゃあな」
 リツは窓から出て行ってしまった。
 私は再び畳に横になる。
 言い過ぎただろうか。これで、リツはもう、ここに遊びに来なくなってしまうかもしれない。でも、それはそれでいいんだ。だって、リツはヒナの。
 私の方が、ずっと好きだったのに。リツのいいところも、悪いところも、沢山知ってる。全部ひっくるめて好きだったのに。ヒナはきっとまだ、リツのいいところしか知らない。これからは、きっと、リツの悪い部分も知るようになる。でも、リツが好きな子にしか見せない表情とか仕草とか、そういう部分は、ヒナにしかわからない。私は見ることが出来ない。
 悔しい。
 私の目から涙の粒がこぼれて、畳の網目に消えていった。

 いつの間にか、眠っていたらしい。
 雨の音で目が覚めた。夕立ちだ。鼠色の分厚い雲から、大粒の雨が落ちている。開けたままの窓からも侵入して、畳が雨で濡れてしまっていた。
 私は慌てて起き上がり、窓を閉めた。窓ガラスを打ち付ける雨粒を背に、私はテーブルに置かれた夏みかんを手に取った。
 ひとつ、口に入れる。甘酸っぱい。それから、少し苦い。


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