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ハンチバックの感想(嘘松乙と言い捨てて向かう先)

 ぶろっこりーまん(@broccoryman)さんが主催する読書会、輪読座で芥川賞受賞作品「ハンチバック」を読みました。輪読座は月に二度程度開催され、名作から話題作までカテゴリーに拘わらず様々な本を取り扱う読書会です。僕も久々に参加しましたが、毎回参加者を募集しているので、興味のある方はぜひDMしてみてください。


 以下、あらすじと感想を書きます。当然内容に触れるのでネタバレ注意です。


【大雑把なあらすじ】

 主人公の井沢釈華はミオチュブラー・ミオパチー(筋疾患系の難病)を患う43歳の女性で、大学の通信過程に在籍しながらネット記事やティーンズラブ小説のライターをしている。両親の遺産により経済資本、文化資本には恵まれており、両親の遺したグループホーム「イングルサイド」に住む。仕事の収益は、寄付に使っている。
 実生活ではうら若く真面目で寡黙な女性で通っているが、Twitterアカウントでは〈生まれ変わったら高級娼婦になりたい〉というツイートをプロフィールに固定するような二面性を持っている。
 ある日、釈華は〈普通の人間の女のように子供を宿して中絶するのが夢です〉とツイートする。その後、男性ヘルパーの田中にTwitterアカウントを特定されていることが明らかになる。そのことをきっかけに、釈華と田中は1億5500万円を渡す代わりに妊娠するためセックスをすることを取り決める。
 しかし当日、釈華は精子を飲むことを望み田中は口内に射精するが、気管と食道に精液がまとわりつき、それを吐き出す力のない釈華は誤嚥性肺炎となって入院する。
 その後田中はヘルパーをやめ、退院した釈華は、渡すはずだった1億5500万円が引き出しに入ったままであることを知る。
 ここで旧約聖書の引用を挟んでから場面は一転し、ソープで働く早稲田大学政経学部の女子大生紗花の話になる。彼女は客との営みの中で、兄がグループホームの利用者を金目当てに殺して刑務所にいることを話す。彼女は兄が殺した女性の少し変わった名前と病名を今でも覚えている。
『私に兄などなく、私はどこにもいないのかも。』(p.93)

【感想】

 面白かったです。僕は本当に久しぶりに本を読みましたが、非常に読みやすい本だと思いました。

 大きく分けて二つのことに関して感想を書きます。一つは釈華にとってモナ・リザとは何だったのかについて、もう一つはラストの紗花パートの意味です。

 

1.釈華にとってモナ・リザとは何なのか


 「完成された姿でそこにずっとある古いものが嫌いだ。壊れずに残って古びていくことに価値のあるもの達が嫌いなのだ」(p.45)とあるように、釈華は壊れず残り続けるものに嫌悪感を示しています。これに対応するのは、「生きるために壊れる、生き抜いた証として破壊されていく」(p.46)自分自身の人生です。完成され壊れず残っていくものの象徴としてモナ・リザは登場し、釈華はそれを汚したくなる気持ちが分かると吐露します。誰かが生き抜いた証としてモナ・リザが汚されることを肯定します。
 しかし、彼女がここまで生きてこられたのは両親の遺産という、完成されそこにずっとあるもののおかげです。貨幣など資産は、壊れず残って古びていくことに価値がある、釈華と反対の位置にある存在です。自分が嫌悪する完成され残り続けるものによって、生きるために壊れ続ける自分が生きてこられた。ここには歪みがあります。
 釈華は自分が健常者のような人生を送ることが出来なかったことにルサンチマンを抱えていますが、自分自身の中に尊厳も見出しています。これは「私と同じような筋疾患で寝たきりの隣人女性は差し込み便器でトイレを済ませるとキッチンの辺りで控えているヘルパーを手を叩いて呼んで後始末をしてもらう。世間の人々は顔を背けて言う。「私なら耐えられない。私なら死を選ぶ。」と。だがそれは間違っている。隣人の彼女のように生きること。私はそこにこそ人間の尊厳があると思う。」(p.80)とはっきり言われています。どんな形であれ、生きようとすること。ここに彼女は人間の尊厳を見出しています。
 では、釈華が生きるために必要だったことは何なのか。これはこの物語の最後に明示されます。それは「釈華が人間であるために殺したがった子」(p.93)です。「私の身体は生きるために壊れてきた。生きるために芽生える命を殺すことと何の違いがあるだろう。」(p.46)とあり、彼女は妊娠して中絶することを、自らの生の象徴となり得るものだと考えています。
 ここで田中にTwitterアカウントを監視されていて中絶願望の実現について匂わせられたことによって、先程の歪みの解消と自分の生の象徴を同時に実現するプランが出てきました。両親の遺産を使って妊娠させて欲しいと交渉することです。これによって遺産に赤いスプレーをかけながら、人間として尊厳を持って生きることを両立出来ることになります。
 
 まとめると、釈華にとってモナ・リザは「壊れず残って古びていくことに価値があるものだが、誰かが生き抜いた証として汚されてしまったもの」です。彼女はこれと重ね合わせて、両親の遺産という完成されたものを自分が生きるために中絶するという目的のために浪費し破壊する、ということに自分という人間の尊厳を見出しています。
 しかし、その目論見は失敗に終わります。彼女は行為に移る前に入院する事態になるし、田中は遺産に手を出さず消えてしまいます。「苛立ちや蔑みというものは、はるか遠く離れたものには向かないものだ」(p.33)。「そう。その憐れみこそが正しい距離感。 私はモナ・リザにはなれない」(p.81)。彼女は自分が、自分という障害者の持っている遺産が、赤いスプレーによって汚す価値もないものであったことを突きつけられます。
 自分という人間の尊厳を保つためのとっかかりも、完成された親の遺産によって壊れ続ける自分が生きてこられたという歪みの解消の方法も、失ってこのパートは終わります。

2.ラスト「紗花」パートについて


 読書会でも様々な読み方がされており、私も色んな可能性があると思いますが、今は別の物語であるという風に読むのが自然だと思っています。
 このパートで紗花が「私に兄などなく、私はどこにもいないのかも」というふうにすべてフィクションであったことを明らかにします。これはバーチャルYouTuberが「まあ私なんてどこにもいないんだけどね」とあっけらかんに言うような、フィクション性の強調です。そうすると、読者は釈華についても同様に、「そういえばこれはフィクションだった!」と改めて認識します。
 この文がなければ、作者が主人公と同じミオチュブラー・ミオパチーを患っていることを知っている多くの読者は、非常にリアルなエッセイとして釈華についての文章を読み終わったかもしれません。
 では、このパートは読者に物語はすべて意味の無い妄想であったと知らせたかというと、そのようなことは絶対にありません。すべてのフィクションは他のフィクションと繋がり合い重なり合い、そして現実を反映していて、現実を知るための道具となるということを、あえて釈華パートがフィクションであることを強調することで示しています。
 最初のハプニングバー記事で登場した早稲田政経のSさんが明らかに紗花に似通っていることはそれを強調するために為された工夫でしょう。
 釈華の書いたコタツ記事というインターネット上の真偽不明の情報を継ぎ合わせたフィクションの中にいるSさんと別のフィクションの中にいる紗花とが、その二人を取り巻く環境が重なり合うことは、そのフィクションがある一つの方向を、現実の方向(作者の見ている世界)を向いていることを示しています。
 フィクションは、インターネットのつぎはぎ情報は、現実世界を反映している。少なくとも、身体障害を持った作者は広く世界歩き回りリアルな感触を味わうことは出来ず、世界をそのようにしか捉えられない。嘘松乙と言って向かう先などない。フィクションが現実を反映していないなら、何を信じればよいのか。そのような叫びが、このパートだと思います。

【所感】


 ここからはハンチバックの内容とは関係ありません。全くと言っていいほど読書をしてこなかった僕が読後に感じたことです。
 ハンチバックは非常に読みやすかったです。短めの文章であったこともあって、読まずとも参加していい輪読座でも各々が感想を持ってきていました。面白かった。面白くなかった。どうでもよかった。様々な意見がありましたが、確実にハンチバックという作品の価値がどうなのか考えられていました。
 そこで、文学は最後まで読まれることが価値のために必須なのではないか?と思いました。最後まで読んでいない人の批評には全く価値がないからです。ここでいう批評というのは批評家のするような大仰なものでなくとも、一般読者の面白かった〜というような感想を持つことも含まれています。
 これに想像される反論は、文学は読まれる(批評される)ことがなくともそのもので価値があるというものです。しかし僕はこれが実感として理解出来ません。分かりやすいように美術で考えると、頭の中なら誰だって名画を描けます。それを客観視できる形に出力するのが、芸術の本分だと思います。だから、文学においてもそれが人に読まれる形で完成されることが、価値のために必須だと思われます。
 美術は一目見て感想を持つことが出来ますが、文学は先程も言ったように一ページ目で価値を決めることができません。となると、最後まで読まれない「難解な文章」は無価値ですらなくなることが多く、「読みやすい文章」の方が価値の期待値が上がるのではないか?と思いました。ということは、一般読者のリテラシーが下がれば、文学の価値は低いものと(読まれれば価値が高いが読み終わらず)無価値なものになってしまうのではないかとも思われます。
 僕のような普段文章を読まないリテラシーの低い人間が、文学の価値を下げてしまっているのではないかと、久々に輪読座に参加して思いました。

【追記】


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