一生そばにおります


 2丁目の吉田さんちのご夫婦はとても仲の良い老夫婦でした。おじいさんは愛想のいい人で、道で会うと決まって、こんにちは、今日はいい天気ですね、とニコニコ挨拶してくれましたよ。でももう長いこと 患ったまま寝たきりだと聞いております。おばあさんの方はと言いますと、これまた なかなか勝ち気な性格で暮らしを支えるために朝から晩までパートやら内職やらで稼いで、夫婦二人分の糊口を凌いできたと言います。けれども、最近じゃ、そのおばあさんも、すっかり弱って買い物以外、滅多に外出しようとしません。先週まで列島に わだかまっていた梅雨もようやく晴れて、これからいよいよ夏本番だというのに、長屋の雨戸も締め切って部屋にこもってばかりいるそうです。今じゃ、吉田さんの老夫婦は、おじいさんの年金だけを頼りに細々と暮らしているそうなのです。高齢者だけの世帯というのは、これは、いろいろ心配ですから、周囲の人たちも気になって顔を見合わせては、もしかしたら…、ひょっとしたら…、まさか…、なんてついつい悪い想像もしてしまう。けれど、夫婦2人は、身寄りがなく、以前から訪れる者もほとんどおりませんで、たまに区役所の福祉課の係の人が足を運んできても、元より気難しいところがあったおばあさんは、ひどく警戒して一歩も部屋の中に入れようとしません。昔気質の人というのは、人からいらぬ世話を焼かれるのを、毛嫌いするのでしょうな。 さあ、そこで近所のおばさん連中の出番なんだけど、彼女らの口はどうもいい加減でいけない。おじいさんが家から出てこないのは、もう、とっくになくなっているからだと言い出したり、あるいは、おばあさんは、おじいさんを絞め殺してその始末に困って死体を床下に埋めたに違いない、と勝手に決めつけたり、いや待ってよ、もしかしたら、庭の古井戸の中に投げ込んだのでは…、などなど無責任な噂があちこちで飛び交っておる。女の口には戸を立てられないという諺通りだ。しかし、 皆さん、うんざりしてはいけません。ため息をついてはいけません。このようなおばさん連中の身勝手な囁きの中にも、いっぺんの真実が紛れ込んでいることが、この世にはままあるものです。ちょっと耳を傾けてみましょう。
「ところで、実際、吉田さんちのおじいさんはどうしてるのでしょうね。もう長いこと姿を見せないけど…」
「さあ、私もよくわからないけれども…

「何か変わったところはなかったですか?」
「いや、今まで通り、ひっそりとした生活が続いてるわ。どこも変わってないわ。あ、でも、一つだけ気になることがあるわ」
「何?何?」
「以前はね、おばあさんは駅前のスーパーで月に何度かまとめ買いをしていたの。 足腰の弱っているおばあさんのことだから、家からスーパーまで往復する手間を少しでも、減らしかったのでしょうね。でも、ところが、近頃では、おばあさんは、毎日のように、せっせとスーパーに足を運んでいるのよ。私、何を買っているのだろうと不思議に思ってね、こっそりおばあさんの後をつけて行って、一度だけ調べたことがあるの」
「何を買っていたの?」
「氷よ、氷。それも一つや2つじゃない。買い物かごから溢れるぐらいのたくさんの 氷。それを一度に買うの。おかしいでしょう。しかももっとおかしいことには、おばあさんは、食料は何一つ買っていないのよ。氷だけを来る日も来る日も、大量に買い続けているの。一体、普段は何食べてるのでしょうね…」
「あ、私もう分かったわ」
「え?何がわかったの?」
「だから、おじいさんの行方よ」
「どうしてわかったの?」
「氷、氷でピンと来たの」
「で、おじいさんの行方はどうなったの?」
「おじいさんは、もちろんおばあさんのそばにいるわよ。だって元々仲の良い夫婦ですからね。ただおじいさんはもう生きていないわ」
「え!それはどういうこと。おじいさんはすでに死んでいるとでもいうの。どうしてそんなことがわかるの。勿体ぶらないで教えてちょうだい!」
「だから、おじいさんは病気で死んだのよ。具合を悪くしたまま寝たきりだと言ったでしょう」
「そこまでは私にも予想がつくの。そこから先を教えてちょうだい!」
「それは教えられないわ。だってさすがにその理由を言うのは忍びないからね。でもおじいさんが死んでからも、おばあさんはきっと幸せなはずよ。間違いなくね。そんなことより、あー、暑い。くそ暑い。奥さん、梅雨があけたらめっきり暑くなってきましたね。今年の夏は例年になく、暑くなるそうですよ。ですから十分気をつけないとお宅の旦那さんのお弁当も腐りやすくなりますよ。くれぐれも用心しなければいけませんね。何せ、愛しの旦那様の体はとてもとても大切な…、いやいや、これ以上、言うのはさすがに忍びない」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?