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殴らずにはいられない。

昔、『詩のボクシング』という番組があった。
ボクシングリングの上で、2人の詩人が自作の詩を朗読して『どちらにより殴られたか』を審査員や観客が投票して勝者を決めるのだ。

お気に入りの番組だったけれど、同時に、

「な、な、なんて野蛮なんだーー!!」

と仰天していた。
だってそうだろう。詩も、歌も、唄も、たぶん暴力とは一番縁遠いところにあってほしいと願われ続けてきたものだ。暴力とは一番遠いところにあって、それでも失われない強さと美しさがあって、そうあってほしいと人類が言葉を得てから祈り続けてきたんじゃないのかと──こんな大仰な言い回しではないにせよ、幼い頃の私は思っていた。歌なんて、そりゃみんなで仲良く歌いたいし、詩だってみんなで味わいたい。メロディや言葉が繋ぐ絆や心の平安ってのはきっとあるはずだ、と。

その心境が変化したのは、『詩のボクシング』のいわゆる名人戦を観た時だ。たしか、親戚か誰かが、ビデオテープを貸してくれたとか何とかだったと記憶している。

1998年、対戦カードは谷川俊太郎vsねじめ正一だ。レジェンド詩人、どっちも小学校の教科書や図書館のおすすめ本コーナーで目にした名前である。この2人が自作の詩を、あるいは即興の詩を詠んでいくのだけれど、これが面白い。本当に、彼らは言葉で殴り合っていた。小気味のいい、単語のジャブ、繰り出される言葉への、カウンターパンチ、ぶち決まるストレート!

勝負を決したのは、自身が熱烈な真空管ラジオコレクターでもある谷川俊太郎の『ラジオ』を題材にした即興詩だ。会場がその詩に耳を傾け、息を潜めて聴き入っていた。2人の詩人の殴り合いで白熱した会場が、静かに、静かに──その様子は、決して、詩に殴られてなどはいなかった。会場の人たちはたしかに一編の詩を通してひとつになっていた。そして、谷川俊太郎とねじめ正一の間には、我々には見えない何かが生まれているように思った。

詩で殴り合うだなんて、なんという野蛮。
そう思っていたのだけれど、殴り合うことでしか生まれない詩が、言葉が、歌があるのだと。肌で理解した、ような気がした。

なお、ねじめ正一がくじ引きで引き当てたお題は『テレビ』で、子供ながらに「テレビとラジオなら、そもそもラジオのほうが『詩的』だからちょっとズルいなぁ」とねじめ氏に肩入れしていたのを覚えている。なんというか、いわゆる勝負は時の運というやつである。


それから時は流れ、詩の「ボクシング」だなんて野蛮だなあとぼやいていた子供は長じて文字書きになったわけで。

大人になってわかったことなのだけれど、人間というのはどうしたって野蛮で暴力的なものだ。この言葉で、物語で、人を殴りたくならずにはいられないときがあるのだ、どうしようもなく。

私はここにいるのだと、証明するために。
24億光年の果てしなく孤独な宇宙にむけて、人類がラジオ波を放たずにはいられないように。

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追記
詩のボクシングが地上波で放送されていたときに、「うみほたる」さんという詩人がとりわけお気に入りだったのだけれど、ネットに触れるようになってから彼女の消息をいくら検索してもわからなくて、ずっともどかしい気持ちだ。検索が下手なのかしら。あなたの言葉はディテールも輪郭も失われてしまっても、確かに私の記憶には、天から降り注いだガラス片のように残っているのだと伝えたいのだけれど。

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