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泥に箱船~座薬に敗れた恋の話~【小説スケッチ】

大失恋であった。
そんじょそこらの失恋ではない、大敗北であった。

30分あたり99円、フードドリンク持ち込み自由。壁の薄い、音響の悪い、ヤニ臭いカラオケボックス。そこかしこから、ブンジャカズンドコ、ぼえぇ~と音が聞こえてくる。外は雨。冬の、冷たい、霙まじりの雨。暖房がよく効いた、カラカラに空気の乾いた狭いカラオケボックスの個室は、なんだか箱船みたいで心地よかった。午後5時54分のことだった。

「結婚ですか」
「そう」
「いつ?」
「卒業したら、すぐ」
「急ですね」
「こういうことって、たいがい急なものじゃん」
「そうとも限らなくないですか?」
「私はそうなの」

平成から変更のなされていないのであろう古くさい映像を背景に流れる歌詞をじっと見つめながら、お気に入りの昭和歌謡を歌うでもなく。
セーラー服を着崩した彼女は、そう言った。

「法律的には、問題ないですね」

私は安部公房の文庫本に視線を戻して、精一杯の虚勢をはった。
彼女はもう17才だ。同級生の私に至っては、誕生日を過ぎて18才。高校三年の冬休みである。この国の女の戸籍は16才から、婚姻なる契約の対象とすることができるのだ。道理は通っている。

「子どもできた」
「……おめでとうございます」

なるほど、それで婚姻か。私は思わず鼻白む。
少し前から、彼女に男ができたことは知っていた。
コールセンターの夜勤担当者で、26才で、天然パーマで髭面で、大学は哲学科を卒業したとか、してないとか。自分で自分のことを「バカ」だと嗤う彼女にとって、きっと神様みたいに思えるんだろう。訳の分からない話をしてくれるところが好きだと、幸せそうに微笑んでいた。彼女は17才なので、結婚することは法的に問題ないけれど、彼女の腹に子種を振りまく行為は条例違反にあたるような気がして、顔も見たことがない男のことを憎む気持ちに拍車をかける。好きな女を取られてしまう個人的な恨みを、正義感が後押ししてくれた。汚らしい正義感もあったものだ。

何も言祝ぐ気になれないまま、私の視線は安部公房が紡いだ文字の上を滑っていく。文字通りの上滑りだ。

はじめに、彼女がカラオケで歌う曲が変わった。
昭和歌謡と古いアニメソングを好んでいた彼女のデンモクの履歴が、聞いたこともないバンドの曲に置き換わってしまったことに、気がついてしまった。出会ってから先日まで、カラオケ好きの彼女は、必ず1曲目に大昔の野球漫画のオープニング曲を声出しがてら歌っていた。体中の筋肉をほぐすようにグニグニと動きながら歌う彼女が好きだった。それが今や、うろ覚えの、よう知らんバンドの曲を叫んでいる。私よりも一回り小さくて華奢な体に見合わない、豊かで低い声とでかい乳、大きな口が好きだった。その声で、体で、下品ながなり声をあげないでほしかった。

次に彼女は、図書室で本を借りるようになった。彼女の鞄から星新一のショートショートを発見したときには驚いた。活字という活字を拒否する彼女が、文庫本を! 私がいくら彼女の隣で本を読んでいても、見向きもしなかったA6判の紙の束に熱心に向き合っているのを、呆然として見つめたものである。どうして、と問えば、照れくさそうに彼女は文庫本を閉じた。

「あいつの、センモンが、うぃと……びと……なんとかシュメール……」
「ヴィトゲンシュタイン?」
「そう、それ」
「ヴァイスヴルスト?」
「あ、そっちかも」

ヴァイスヴルストはドイツの白ソーセージなので、おそらく正解は前者であろう。こいつの彼氏の大学時代の専門は、近代ドイツ哲学らしいことが分かって、溜息をついた。少し背伸びして読んでみた『青色本』はさっぱり意味が分からなかったのだ。敗北である。

そう、事実、敗北なのだ。
私がいくら、好きでもないカラオケボックスにまでついてきて、気分良く歌う彼女の隣で日本の古典文学を読んでいても、彼女は「何読んでんの?」という初歩的な興味すら持ってくれなかったのだから。

安部公房をボロボロの学生鞄にしまいこんで、安っぽいカラオケの音源に紛れるようにして彼女の後ろに忍び寄る。

「……おら」
「ぎゃっ!」

全部が馬鹿らしくなって、彼女の小さな体に抱きついた。
でっかい乳に手を這わせる。この感触は、マルエツで1000円で投げ売りされていた見た目ばかりがそれなりの、淡いカナリアイエローのブラジャーだろう。一緒に買いに行ったのだ。キコキコとチェーンが軋む自転車に二人乗りしているのを、お巡りさんに怒られながら。

「乳首触るなって!」
「いやです」
「ねえ、ホントにやめ……あっ、ほんと、だめだって!」
「…………。ごめん」

ことあるごとに一緒にいたし、コーヒー屋で学校もさぼったし、たばこも吸ったし、お酒も飲んだ。修学旅行先では二人で班行動の最中に抜け出して、京都の花街を、手を繋いで歩いた。二人で年齢確認がガバガバのラブホに入った時には緊張したけれど、休憩サービスタイム2,900円を割り勘すると時間あたりではボーリングやカラオケよりも安かったりすることに気がついて驚いた。どうしたらいいかわからないまま、お互いの体を触り合って、髪の毛を洗って、ドライヤーでかわりばんこに髪を乾かして、梳かして、彼女の短い茶髪をアイロンでくるんくるんにして──それでも私は、負けたのだ。

そのあと、彼女は何曲か謎のバンドの謎のマイナー曲を歌った。
このカラオケボックスのサービスタイムは19時まで。メロンソーダを飲み干して、立ち上がり、マフラーを巻いた。彼女はノロノロと、ダウンジャケットを着込んだ。そっと下腹に視線をやった。セーラー服のひだごしの、なだらかな曲線から、思わず目をそらす。今、妊娠何ヶ月なのだろう。というか、この間、生理痛でへばってなかったか?

「その、子ども、堕ろしたりはしないんですか?」
「正直、ちょっと考えた」
「……どうして、結婚するんですか」
「あー、それなんだけどさ」

彼女は、へらへらと笑った。

「座薬、入れてくれたんだよね」
「……あ?」
「こないだ、すんごい便秘になっちゃってさ。彼の家でのたうち回ってたのさ」

言いたいことが山ほどあるけれど、黙ってその先を促した。
土日には彼の家に入り浸っているのだ。だから最近は週末に私と遊んでくれなかった。というか、私が大学の推薦入試でバタバタしている間に、なにしてんだ。

「そしたらさ、病院でもらってきた座薬入れてくれたんだよね。一緒に馬鹿なことしてくれる人も、優しい人も、頭いい人も、そりゃたくさんいるけれどさ、結婚するなら座薬入れてくれる人がいいって思ったんだよ」
「はぁ、そうですか」
「それにさ。あいつ、好きだって、ちゃんと言ってくれるから」
「……そう、ですか」
「座薬、いいっしょ?」
「どこがです?」

座薬かよ。よりにもよって、座薬かよ。
私が呻くと、彼女はケラケラと笑った。屈託ない笑顔。
かつて、彼女はこんな風には笑わなかったことを、ヴィトゲンシュタインマンは知っているのだろうか。

中学三年のころから、彼女は地元の中学でヤリマンとしてその名を轟かせていた。当時の交友関係はいわゆる反社会的組織予備軍の不良グループで、彼女はその下っ端の男のカノジョだった──つまりは、彼らの組織のなかで無料のコールガールであったわけだ。登校するたびに耳のピアスと、顔面のアザが増えていた。それでも、彼女は優しいひとだった。クラスの中になじめずに、誰とも親しくなれずにいる私に声をかけてくれたのも、不良グループの性欲処理係に甘んじていたのも、もしかしたら同じ理由なのかもしれない。
はじめは、絶対に関わりたくないと思っていた。けれど、その声が、横顔が、貫かれた耳たぶが、シングルマザーの母親が半年間姿を見せないアパートで作ってくれるキムチ炒飯が、足下の避妊具を踏みつけて隠そうとしながらヘラヘラと笑う口元から覗く八重歯が、私の心をぬかるませた。泥の中に引きずり込まれるように、彼女のことしか考えられなくなっていたのだ。

私は彼女を口説き落として、自分と同じ寮制の高校に進学させた。学力が小4で止まっていた彼女を、まがりなりにも学科試験で合否が判定される学校に入学させるのは一苦労だった。それでも、苦にはならなかったし、むしろ役得だと思っていた。

カラオケボックスから一歩外に出ると、街は灰色。振ってくる霙交じりの雨はビチャビチャと傘を叩き、冷え切ったアスファルトがしんしんと足先を冷やした。

「……寒いですね」
「いや、ほんと」

私はコートをはだけて、セーラー服の下のヒートテックに貼り付けていたホッカイロをベリベリと剥がした。

「……これ、あげます」
「お、ホッカイロ?」
「お腹、冷やさないでくださいね」

使いかけのホッカイロを、彼女の下腹に貼ってやる。
往来で友人の体をまさぐって、セーラー服を脱がせるのは本当に最悪だけれど、許せ。だって私たちはまだ女子高生で、いくらだって傍若無人を許されるはずなのだから。

「ありがとね」
「いえ」

かつて私の心には、温かい泥のような感情が満ちていた。
彼女のことばかり、考えていた。

けれど、今はそうじゃない。
大学とか、就職とか、将来とか。彼女以外のものの、私の心に占める割合が少しずつ増えてきた。きっとそれが、大人になるということで、生きるということで、私の失恋の形なのだ。変わってしまったのは彼女じゃなくて、私のほうなのかもしれない。喪ってしまったあの泥濘は、もう二度と私の心には帰ってこない。

座薬に負ける人生か、と思うと、なんだか笑えてきた。私は18才で、うち3年半を彼女という泥の中に浸かって過ごしてきた。実に人生の20%弱にあたる割合だ。私の人生の二割は、尻の穴に錠剤をつっこんでくれる男の前に敗れ去ったのだ。

「っていうか」
「ん?」
「あなた、例えばの話ですけど、私に入れさせてくれるんですか?」
「何を」
「何って、座薬を」

きょとん、と私の顔を見上げる彼女は、くしゃりと顔を歪めた。

「やだよ、恥ずかしいじゃん!」

それが答えだ。
大失恋であった、そんじょそこらの失恋ではない、大敗北だった。

心地の良い泥の中。歌う彼女の隣で文庫本の頁をめくる特権に自惚れていなければ、彼女の尻に座薬を突っ込むのは私だったかもしれないのに。好きだって、たった一言、伝えていればよかったのに。

じっと、手を見る。
いつか、こいつの乳の柔らかさも忘れてしまうのだろうか。

「……座薬さんと、お幸せに」
「おう、ありがとね」

寮に帰っていく彼女の背中を見送る。
好きだった女の未来の旦那を、「座薬さん」と呼ぶ程度のいけずは、これからも許されてほしいと思った。泥船に取り残される負け犬に許されるのは、たぶん遠吠えくらいだし。

アスファルトに冷たく堆積した霙を、ぐじゅぐじゅと踏みつけた。

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