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私は今日も言葉を紡ぐ。世界の解像度を上げるために。

もともと夜型人間である自覚はあったが、最近は特に夜眠れない。
というより、寝たくない。
不安とかではなく、夜になるととにかくパソコンと向き合いたくなってたまらないのだ。
そんなこんなで眠れない夜の独り言を放流したりする。
今日は転職活動中にあった(私にとって)嬉しい出来事。
学びと発見についての話。

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相変わらず、ぼちぼち就活を進めております。

就職先が決まったら転職記でも書こうかなと思ったり。
といっても、本当に大したことをしていないので、何も参考にならないかもしれない。
というか、そもそもちゃんと就職決まるのだろうか……。
さっきまで自信満々だったのに、またグラグラと自信が揺らいでいるのを感じる。

私はいつも自分を騙しながら生きてるので、
「私は天才!」「私はなんて駄目な人間なんだ…」という思考を行ったり来たりする。
でも文章を書いてる時だけはいつも、「私は天才!」と思える。
先日も別のESの添削のためにハロワに赴き、2名の職員に添削をしてもらったが、結局褒めちぎられて帰ってきた。

私の文章をこれでもかと褒めてくれた職員の方とあれこれ話をしていると、

「よく本を読まれるんですか?」
と質問を投げかけられた。


文章が好きな人や感情・思想など非言語の言語化が得意な人は、
結局自分の中の引き出しが多い人間である
、と私は思っている。

引き出しを増やすためには、自分の中でいろんなものを享受する必要がある。
そのわかりやすい例が読書。

表現方法を学ぶのに読書以上にふさわしいものがあるだろうか?
いや、あったとしても、私の中では表現の学びの最上級に位置するのが読書だ。

そこまでいうなら、さぞかし読書を嗜んでいらっしゃるのだろう、と思われるかもしれないが、恥ずかしながら、最近はめっきり本を読んでいない。
最近というか、中学以降なので、もう10年くらいは読んでないかもしれない。

それまでは、「趣味はなんですか?」と問われれば「読書です」と返すほどには本の虫だった。
小学校の図書室にある本を本気で読破しようと足繁く通っていたし、いつもクラスで一番の読書量だったし、年間読書賞なんかも貰った。読書賞に関しては、嬉しい!というより、貰って当たり前、という感覚だった。

それほどまでに本の世界は魅力的だった。

引っ込み思案で内気でなんでも抱え込んでしまう私にとって、
現実世界の人間とのやりとりより何倍も、本の世界は楽しくて美しかった。

本の世界に入り浸っていたおかげで今の複雑思考回路が出来上がったのだと思うと、幼い頃の私の行いに拍手を送りたいほどだ。


では、中学以降なんで本を読まなくなったか、というと、
別に特別な理由はない。
今でも本は(読まないけど)好きだし、今の家にも本は数冊置いてある。

特別な理由はないけれど、何かを挙げるとすれば、
「読書以外の選択肢が増えた」
というのが一番しっくりくる言い訳だ。


中学以降、親のパソコンを借りて、ゲームやブログを見ることが多くなった。
友人に勧められて、アニメを見るようになった。
バンドを好きになり、いろんな音楽を聴くためにYoutubeを巡るようになった。
ファッション雑誌を買うようになり、好きなコーデを切り抜いてノートに貼りスクラップブックを作るようになった。
フェイクスイーツのハンドメイド作品と出会い、自分でも作ってみるようになった。

今でもそうだが、私は本当に多趣味なのだ。
だから読書だけに費やす時間がぐっと減った、、というのもこれは曖昧な言い訳で、、時間なんて作ればいくらでもあるわけで、、、

「読書よりも魅力的なものにたくさん出会ってしまった」

というのが私にふさわしい言い訳かもしれない。
あとは、私の読書に対する愛情が他の読書家の人と比べると足元にも及ばないほどの愛だということに気づいてしまったことも、私の読書離れに加担しているかもしれない。(この話はまた気が向いたら……笑)




そんなわけで、
「よく本を読まれるんですか?」の問いに返す答えは、
「幼少期はよく読んでいましたが、今は全くです。」だった。

職員の方との談笑の場だからよかったものの、
これ面接で言われたらどう答えようか……と悩んだのはここだけの話。笑


この質問を投げかけてくれた職員の方は、すごく細かくチェックしてくださる方で、なおかつ職員としてではなく、1人の人間として私の文章と向き合ってくれていた。
文章をただの文字の羅列として見る人かそうでないかは、読んだ後に出てくる言葉でわかるものだ。
おかげで私はその人に対してすぐに心を開いた。

転職活動状況のことはもちろん、転職以外のこと、音楽が好きなことや趣味で音楽に関することを文章化して発信していることなんかも話した。


「趣味でも文章を書くほど文章を書くのが好きなんですねー!趣味欄には音楽のことを書いてますが、文章を書くより音楽が好きってことなんでしょうか?」

きっと率直にその人の心から疑問に思ったことなのだろう、と思った。
それにしてもものすごく的確でわかりやすい良い質問だなぁ、と感心をしてしまった。

「文章を書くこと<音楽」なのか。

その答えは否。
私の中では、その言葉の真ん中に位置するものは、不等号ではなくて等号。
文章を書くことも音楽を聴くこともどちらも同じくらい好きで大切なことなのだ。でも、もっと正確にいうと、

音楽を聴いてその感情を文章で表すことが好きなのだ。



音楽を聴いて、「なんかいいなぁ~」っていう気持ちになることってあるじゃないですか。あ、別に音楽じゃなくても、例えば映画とか、絵画とか!
非言語的な芸術作品に対する感情。心の変化に、私は言葉をつけたいんですよね。「なんかいいなぁ~」の「なんか」を言葉で表したい。
その「なんか」は誰かに説明する時に必要になる言葉だし、その「なんか」を突き止めることは自分と向き合うことにもなると思うんです。
それが積み重なると、今、目の前に広がってる世界の見え方すらも変わってくると思うんです。
…抽象的な表現でわかりにくいですよね、、、
うーん……
あ!日本には四季があるじゃないですか。それを日本人は知ってますよね。
春は桜が咲いてあたたかくって、秋は木々が色づいて少し肌寒くなることを知ってる。それって知ってるからこそ、季節の変化に気づくし景色の変化を楽しめるものだと思うんですよね。
なんというか、そんな感じで、、知らないを知ることで見えている世界の解像度が上がる、って感じです。
だから、私は非言語的なもの…感情や思考を言語化するのが好きなんだと思います。



実際にこれくらい喋った。笑
文章を書くのは好きだし得意だと思うけど、テキストなしで喋るのは苦手で、自分が夢中になって喋ってふと相手の顔を見ると「?」という表情をしていることに気づくことがたまにある。
相手に伝わりづらい要因は恐らく、なんでもかんでも抽象的な表現をしたがる私の悪い癖のせいだろう。
結局あれこれ喋った後に、あー伝わってないかも……と思いあれこれと補足をするのも私の悪い癖。

今回もそう。
「あーーーーまたやってしまったーーー……。」と思った。
でも、その職員の方は、少し「?」を浮かべながらも真剣に聞いてくれて、
少し考えた後、

「◯◯さんは、感覚的であると同時に論理的なんですね!」
と言ってくれた。


多分その時、私は「?????」という顔をしていたのだろう。
その方は少し苦笑いをして、続けて説明をしてくれた。


「音楽とか芸術を楽しむって感覚的なものじゃないですか。なんかいいなぁ~って感覚を楽しむ。でも、その感覚を言語化したい、って思うのはすごく論理的思考ですよね。その相反する2つが共存して表れているのがなんだかすごく面白い感覚だなぁ~と思いましたね~~!」


……なるほど。たしかに。

その発想、着眼点は私にはなかった。
というか、長ったらしく話した私の思考に対して、まさかそんな回答が返ってくるとは思わず、純粋に納得したし驚いてしまった。

以前にも少し書いたが、「芸術作品って頭で考えて答えを導き出すことじゃないよ」と母に言われたことがある。私はそれでも意味を見出そうとしてしまっていた。
そして今日初めて言われた、倫理的思考と感覚的思考の共存……
そもそも、芸術に対する根本的な欲求が、私は人とは異なっていたのかもしれない。


まさか転職活動の、しかも談笑の場でこんな新たな発見があるとは……。
全く思いもよらぬ報酬に私は無性に嬉しくなった。


1年以上前の話。
前の職場で、チーム内だけで配布する社内報作成チームに所属をしていたことがあった。有志の集まりで、もちろん報酬も出ない。
私はそういった広報誌作成の経験があったので、企画も執筆も校正も全部全部楽しくて仕方がなかった。当時ちょうど繁忙期で毎日忙しかったけど、帰宅して真っ先にデスクに向かって執筆していたくらいには夢中になって取り組んだ。
でも、他のメンバーは私と同じ熱量じゃなかった。
コロナ化での制作だったので、チャット上でしか進捗状況が確認できなかったことも要因の一つだと思うが、連絡が取れなくなった人もいた。社内報作成をしよう!と一番初めに声を挙げた人が何も発言しなくなった。初めに掲げていた原稿締切日がきても提出できない記事が大半だった。

正直最悪だった。

社内報が一向に完成しないことが、じゃなくて、
同じ熱量で社内報に向き合っていた、と思っていたメンバーが誰1人として私と同じ方向を向いていなかったことが、最悪だった。作成の楽しさよりも失望の方が大きくなった。

私は一番最後に加入したメンバーであることからも、進行に口出しはしてこなかった。
有志の集いだし、完成しなくても誰からも咎められないし、辞めてもよかった。

でも、辞めたら、私が心を込めて書いたこの文章はどうなる…?
私や他の人が時間がない中必死に生み出したこの文章はどうなる…??
自分で生み出しておいて、自分で殺すの…???

私はもう耐えきれなくなって、周りの目も気にせず、私は編集進行を買って出た。というよりもはや、社内報作成に関わるあらゆる権限を乗っ取った、というのが正しいかもしれない。
誰がどこまでできて何ができてないのかを全て把握しそれぞれに期限を提示し原稿を全て管理した。とにかく意地でも配布しよう、という気持ちだけでやっていた。

結局、なんとか配布は行えたので、結果オーライだろう。


そして、私はこの社内報作成を通して心に決めたのだ。
文章なんて簡単に書けるだろうとナメてかかる人間、
言葉を蔑ろにする人間のことは、
金輪際信用しない、と。


そんなこんなもあり、社会人になってからというものの、

身近に文章に対して真剣に向き合ってくれる人なんていなかった。
私の思考に向き合ってくれる人なんていなかった。

だから、私自身の発見や気づきも、もちろんなかった。
そして、新しい発見や気づきを得た時の嬉しさを、忘れていた。


「◯◯さんの文章を読んで、知らないことを知れたし、なんだかたくさん学ばせてもらいました。ありがとうございました。頑張ってくださいね^^」

少しだけ赤ペンで修正された、ほとんどまっさらな状態のESを返却され、そんな言葉を掛けられた。

ぼんやりとあったかい気持ちに浸っていた私はハッとしてとっさに、
「いえ!!!私の方こそ……!丁寧に見ていただいて、、ありがとうございました!頑張ります!」と、すぐに言葉を返した。

本当は、「私の方がたくさん学びがありました!」と伝えたかったけど。
なにぶん私は喋るのが苦手なのだ。
心の中で、
私の方こそ、たくさんの学びをありがとうございました。
私の文章と思考に向き合ってくれてありがとうございました。
とても嬉しかったです。

と何度もお礼を伝えた。

「私も本読まなくちゃな~と思いましたよ~!娘と一緒に図書館行こうかしら~」
と笑いながら言ってくれた。



「ぜひ。」
本の世界は素晴らしいものですよ。

添削時、「私は文章が得意ではないから難しい表現がわからないけど、」とあなたはおっしゃっていたけれど、真剣に文章と向き合えるあなたなら、きっと娘さんとも一緒に楽しめると思いますよ。

そんなことを思いながら、心があったかくなりながら、私は3度目の添削を終えた。




きいろ。


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