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 小学生の時から「友達」という関係性について考えてきているが、未だに結論づけることができない。

 初めて意識するようになったのは、近所の一緒に帰っていた友達Aからの「俺とBだとどっちが友達?」という言葉からだった。
 おそらく「どっちが友達」とは、「どちらの方があまよりから見て親密度が高いか」という意味だ。いつも一緒に帰るのも、遊ぶのもAとBと三人で一緒だったのだが、どちらの方がより親密であるかを意識したことはなかった。ちなみに、その質問をされた時、Bはいなかった。

 親密度を構成する要素は何があるだろうか。一緒にいる時間か。より本音を話せているかどうかか。
 より年齢が上がってくると、それらがあまり関係のなく、もっと複雑であるように感じる。

 友達Aは特に深い意味もなく訊いたのだろう。実際、私にだけ仲良くしてほしいというようなことも言われなかったし、そういった態度も取られなかった。Aはたくさんの人と仲良くなれるし、中学生になったら僕以外の多くの友達と夜の公園で屯することもあった。
 そんなAを見て、別に私がいなくても良かったのではないかと思ってしまった。
 私は人間関係の構築に関しては敏感な性格だったので、Aの言葉が10年ほど経った今も思い出すことがある。

 高校に入ると友達が少なくなったと思う。自分は仲が良いと思っていても、相手からすればあくまで多少のことは話す程度の知り合いでしかないと考えることが多くなった。今考えてみればただの僻みでしかないと思うのだが、当時の私には、自分が「友達」と思っている人と関わっているとなんだか空虚に感じた。部活が同じで一緒に登下校している同級生とも、ずっと一緒にいたとしても、彼が他の人と私より仲が良いようにふざけあったり、からかい合ったりしているところを見ると「彼にとって俺はなんでもない人なのかもしれない」と感じてしまう。
「俺の雰囲気にわざわざ付き合ってもらっているのかな」「俺といても楽しくないのかな」
 そう考えれば考えるほど、彼と一緒にいることに申し訳なさを感じ、結局、高校卒業後はほとんど連絡を取り合っていない。大学生になった今でも、高校で関わった同級生とわざわざ待ち合わせて食事に行く経験もほとんど無い。

 大学に入ってからは非常に「友達」に恵まれた。一緒に遊びに行く人、気軽に食事に行く人も多かった。大学生活になると、他人と関わる時間も少なくなるからか、私の「友達」の、自分以外の人間関係が気になることがなくなった。私と会っている時間は、間違いなく私とは「友達」であるのだろうと割り切ることができている。

 あまりに深く親密になった「友達」とは、友達と呼べるかどうかも怪しくなってくる。
 一人の友人Cがいる。一緒にイベントを企画し成功させた相棒だったが、様々な苦悩を超えて戦友であると感じた。ともなれば「友達」の二文字で表すのも勿体無い。彼とは頻繁に会うわけでもないし、他に多くの人間関係を築いていることも知っているが、だからと言って「自分と関わらなくても良いのではないか」と思うこともない。あまり彼と会うことはないが、本音を言い合える間柄であると信じており、決して一緒にいる時間に比例して親密度を育むわけではないと分かる。大して関わることのない人のことも、友人Cのことも、同様に「友達」と表現することに納得のいかない自分がある。Cに関しては、「友達」であることに加えて、彼とのエピソードを語りたくなるものだ。

 友達ができる瞬間なんてわからないし、「友達だね」とお互い決めたとしても気が合わず上辺だけの関係になってしまうこともある。一方で、そんな宣言をしなくても良好な関係を築ける友達になれることもある。自分の全てをさらけ出さなくても、自分を押さえ込むことによって良好な関係を築ける人もいる。これらを押し並べて「友達」と一言で片付けられてしまうことが物悲しい。

 彼女との関係においてもそうだ。相手との思い出、愛する気持ちはオリジナルのもので、他と決して違うものと信じているし、それを「恋人」だとか「彼氏/彼女」という言葉で片付けたくない。

 こう感じるのは、僕だけだろうか。周りの人たちはどのように「友達」を捉えているのだろう。

 そういえば、小学校の時の友人Aに聞かれた質問に対して、こう答えた。
「俺とBだとどっちが友達?」
「Aかなー」
 この発言で、結局、僕とAとBとの関係が崩れることはなかった。 

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