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陸上日本選手権を観て

 昨日は隙間時間をずっと陸上の日本選手権の中継観戦に充てていた。大学1年の時に一度だけ参加標準記録を突破し、800mに出場できるかと思ったが、翌シーズンで標準記録が上がってしまったので振り落とされた。

 大学1年、2年、3年と、ずっと日本選手権の中継に釘付けになった。それに加えて自分がその舞台に居ないという疎外感が私を襲った。

 だが、一学年ずつ上がっていくにつれてその疎外感は薄れていっていた。少しだけ「果たして自分にはできるのだろうか」という気持ちが表面に顕れた証拠なのだろう。

 今年はついに陸上を引退してからの日本選手権観戦だった。自分はここになんとしてでも出たい——そんな気持ちはどこか遠くに行き、「自分はここに出たいと思っていたなぁ」という過去形になっていた。

 800m予選を観て、1500m決勝、400m、100mと観ていくと、なお私の戦場ではないのだと感じる。インカレで一緒に闘った選手がテレビに映っていることで、近いものに感じていた。一度は出場権を得た。それでも私が当事者になることは叶わなかった。悔しいか? 悔しいのかもしれない。だけどその悔しさをぶつけるほどではない。もはやその悔しさは残滓と呼ぶに値するものでしかなかった。

 直後、アルバイトに赴いた。小さいスーパーマーケットでレジ打ちをし、商品を前に出す作業の繰り返し。消費期限の商品を廃棄し、閉店作業をする。作業をしながら、直前まで観ていた日本選手権の映像が浮かび上がる。On your markで静まりかえり、ピストル音と共に会場は爆発する。選手も観衆も沸き立つあの雰囲気。耳に残る大会の空気感とアルバイト中の現実の静けさのギャップを感じ、私は自問自答する。

——それだけで良いのか? 決められたこと、指示されたことをただこなすだけの生活が自分の「生きる」ということなのか? 
 陸上では、こんなに輝く自分がいた。間違いなく自分だ。気温よりも暑く、熱い陸上競技場で体をぶつけ合いながら、ゴールを競う。観客を驚かせる。普段のような生活では味わえないような緊張感、高揚感。陸上だけでない。陸上と同じように頑張ってきたピアノもそうだ。どんなに地味な練習でも、本番では緊張の張り詰める空間を支配し、パフォーマンスし、成果を出す。周囲が称賛し、権威を得る。そして次へのモチベーションになる。

 もしかしたら働くことも同じなのではないか?

 そういえば、働くことに対する覚悟や、社会人へ向かうという自覚が足りず、それが理由で就職ができなかった私。働くことが、単にお金を稼いで生活の糧にすることだけでないことを、わかっていながらも理解しきれていなかった自分がいる。アルバイトは目先のお小遣いとして稼ぐが、これを長い間続けているわけにはいかない。自分が輝ける場所がどこかにはある。それがただ競走で一番になることだけではない。自分なりの輝き方を見つけ、それに向けた地味だが正しい努力をする必要があるのだと悟った。

 日本選手権を観て、人生の方向性について考えてしまった。突拍子もないことだろうが、私がぜひ記しておかなくてはならない感情だ。

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