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破裂の瞬間、Melody Cupのこと

書いておきたいような、でももうちょっと煮詰めないと書けないようなものごとがあって、じゃあしばらくはそのことをなんとなく頭の片隅に置きながら機会があればそこにちょっと立ち寄りながら普通に生活してみようか、普通に生活しながら気になる本を読んだりはっとするものごとに心を留めていればそのことがだんだん味付けされてくるかもしれない、とも思う、けれどそういうことをしているときっと私はこのことを忘れてしまうんだろう。
だからといって中途半端なことばにしかならないうちにそれを誰かが読めるかたちにしてしまいたくない、だってまだ薄いうちにかたちにしてしまったらもうこれでもいいか、と満足して諦めて、冷めてしまうかもしれないから。
いやきっとそうなる。
だってTwitterに何か書くだけで言い尽くしたような、言わなければ良かったというような、そのどちらの気持にもなって言葉なんか発した自分を恥ずかしくなって、布団を噛みたくなる。

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8年前に見て深く心に残っている演劇に出ていた方をSNSでフォローしていたことを知って、あの演劇についてもう一度何が自分をあんな気持ちにさせたのかということを考えてみる。
作品の最後に出演者たちが感情(主に怒りなど一般的にネガティブと言われる方向の)を爆発的に増幅して見せる瞬間があって、それはこちらがたじろいでしまうほどの圧力を持っていた。
けれど作品が終わって彼らが破れたように笑顔になった瞬間に、ああ、今まで見ていたのは演劇という仮想の世界だったのだ、そしてその仮想の世界で演じていたこのひとたちは演じるということに深く取り込まれ潜り込みながらも、自分という人間のままであったのだ、いう当たり前のことに安堵し、そこまで鷲掴みにされて投げ入れられていた世界から自分も同時に浮上したことに、気がついた。
あれほどまでの爆発を演者が引き受けたのは、それを演出した高嶺さんが最終的にそれを全部引き受ける、そのことを高嶺さんをはじめとするすべてのひとが信じ切ることができたからなのじゃないか、という気がした。
演出家というのはそうあるべきものだと私は思うけれど、なかなかそういう舞台に巡り合えることも少ない気がする。
稽古時間の都合でそこまで到達しないこともあろうし、性分の合う合わないもあるし、そもそもは演出家そのひとの力量というか人間の出来方というかそういうことが占めるのかもしれないから、なかなか難しい。
ああいう個人の歴史が関わってくるような内容の芝居は、つくる過程で役者がくびきを外してゆかないといけなかったりする場面があると想像するけれど、でもそれができるのは何かしら負荷がかかったときかもしれない、その負荷がどんな種類のものかというのはとても大事なことで、歪んだ負荷から生まれたものは、見ているわたしたちにもその歪みというか上ずった感じは伝わってしまう…ような気がする。

あの舞台がどうやって作られたのか、実際のところ出演者たちが何を感じていたのか、私には分からない。
でも私は、こういう舞台に立つのは役者冥利に尽きることなのではないかな、という風に感じておかしなことだけれど羨ましいような気持ちになった。
舞台に体を晒すのは結局は役者やダンサーであるけれど、晒し甲斐があるというか、身をそこに丸ごと投入していいと信じ切れる舞台はなかなか無い。
舞台という現実ではないとされている場所の上で、現実ではない何かを行うわけだけれど、でもそこに立っている私たち演者は現実に生きている存在だ。舞台の中だけで生きているわけではない、舞台上でどんなに常ならぬことをしていても、自分とはかけ離れた存在となってみせても、終演後も、わたしたちは引き続きじぶんの人生を生き続けなければならない。
高嶺さんの舞台は、ちゃんとそのことまでを引き受けたものにみえた。


自分がなにかを言いたくて、何かしらのかたちを使って表現のようなものをするけれど、それは「わたし」だけで完結できるものではない。
「もの」を使ったり「ひと」を使ったりして、その何かを一番よく表してくれる方法を模索する。(そして最終的には、見てくれたどなたかに全部を手渡す)
自分が見てみたい景色をそこに出現させるために、ものやひとにそこに加わってもらって、彼らの言語で語ってみてもらったりもする。
そういう時、わたしは、私の見たいもののためにほんの一瞬、そのものやそのひとの時間のいっときを切り取らせてここにいてもらう、そういうことをどのくらいちゃんと引き受けられるんだろうか。
特にインタビューを元に作品をつくるような手法じゃなくても、そこにいる体がいやおうなく刻んできた時間や、体験や、つまりそのひと(もの)と世界の関わり方とを、わたしはちゃんとさぐりあてて、生きさせることができるんだろうか。

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高嶺さんの舞台には「舞台上でなにごとかが行われ、それを観客が見ている」そのこと自体を、劇中の観客とのやり取りの中で意識させる場面があった。
観客が、ただ舞台を見ている、という意識から、舞台というものが観客に見られなければ存在できないものであるという一歩引いた視線へシフトできる仕掛けがあって、その構造が急にひらかれるような瞬間に感心したのを覚えている(そのしかけの詳細は残念ながら忘れてしまった。感覚だけが残っている)。
その時高嶺さんは舞台だけじゃなくて近くの会場でインスタレーションの展示もされていて、その展示のなかで「目を向けたものしか見えない」「見るということは意識的に仕向けることができる」というようなことをやっていて、当時の私にとって非常に興味深かった(し、今でも時々そのことを思い出す)。
そのあとすぐに懐中電灯で自分のからだを照らす作品をつくったくらい、ちょっと影響された。

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サルガドの写真や、村上春樹の『海辺のカフカ』で感じたものは、つくるうえでわたしが手放したくないものを、ささくれたナイフでぎこぎこ擦られているような感触のするものだったのかもしれない、
このことについて少し書いてみたんだけど、なんだかうまく書けなくて表面的な悪口みたいになってしまうので、もう少し寝かせておく。
それから、ヤン・ファーブルの舞台のことも関連して思い出した、そのこともまたいつか。

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