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本を読むこと、森

本を読むことを考えるといつも『はてしない物語』のバスティアンを思い出す。
子どもの頃、図書館に行って棚を見回るのが好きだった。
本はあれだけの大きさしかないのに、その中にはいっぱい紙が詰まっている。紙の表と裏には文字が書いてあって、それだけでひとつ次元を飛び越えたような気がするのに、その文字は色んな記憶や冒険や知らないことを語るのだった。
有限な物体なのに、開けば無限がほどけてゆく。
魔法だ、と思った。
図書館に行くと自分が好きな作家の本がある棚を見て、新しい出会いがないか他の棚も見て、それから大人の本のある方もひととおり眺める。
どういうわけか、背表紙を見るだけできっとこれは面白いぞと分かるようになってくる(気がする)。
私が見逃してしまって出会えない本があったらどうしよう、私が読むのが遅くて死ぬまでに読めない本があったらどうしよう、と、いつも心臓がどきどきした。
いまでも、する。

本についてのアパートメントのぬかづきさんのコラムが素敵だった。


時々夢の中に、読めない本が出てくる。
自分が夢を見ていると分かることがたまにあって、そういう時には夢の中の世界をいろいろ見ようと散歩する。
うまくやらないと目が覚めてしまうので、夢と自分を繋ぎ留めながら。
本棚にある本の背表紙には漢字やひらがなやアルファベットがでたらめに並べられて、「本っぽい」体裁でそこに並んでいる。
取り出してページをめくっても、そこには意味をなさないめちゃくちゃな並び順で文字が印刷されている。
まるで映画や舞台の張り子みたいだ。
夢の中のそういう手抜きは、いったい誰がやっているんだろう。
もちろん私の夢なんだから私がやっているのだろうけど、夢のなかで私は呆然としてしまう。
これは誰のいたずらなんだろう?誰が私を騙そうとしているのかな?
呆然としているうちに、夢から醒める。

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世界中にある本を読むのは無理だともうわかったけれど、せめて読んだ本の大事な部分くらいは覚えておきたい。
付箋を貼ったりノートに書き抜いたりするけれど、先を急いでそれを怠ってあとから「すごく大事な感触があの本の右側のページに書いてあった!」ということだけ覚えていて、よおく記憶の中の目を凝らしてもやっぱり読めない、夢のなかの偽物の本みたいに。

「リスはあとで食べようと思ったどんぐりを土に埋めておくけれど忘れてしまう。でもそれがいつか森になる」
本を読んでもそれがどんどん頭から抜け落ちてゆくことを嘆いていたら、友達がそういうふうに言ってくれた。
そうだといいんだけど。
私のなかに森は形成されてるかな。
トウヒみたいに倒れたあとに若木を育て、菌糸や虫の温床になって、ふかふかの土を作って、新しい鳥が生まれたりしているかな。
そうであってほしい。

森が呼ぶものに、忠実でいたい。



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