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母のこと、小さなレイコ


 令子は東北に生れた。一九五〇年代も終わりにさしかかった頃のこと。米農家の長女として生れ、上には長男が先にいた。数年後には妹も生れ、令子は三人兄妹の中間子として育つことになった。

 雪深い土地だ。おおよそ十二月から翌三月まで山も田も、雪の中に埋れてしまう。
 令子と一緒に暮らしていたのは祖母、父、母、兄、妹。家の外には牛がいたこともあった。
 幼いころには水害があった。そのときに、氾濫した川を牛が流されていくのを見た。家に被害はなかったから、流されていたのは家で飼っていた牛とは別の牛である。
 家には火鉢があって、寒い日はみんなで火鉢を囲んだ。
 便所はボットンで、家から離れたところにあった。夜は一人で行くのが恐ろしかった。
 冷蔵庫はなく、野菜は雪に埋めて保存した。



 雪に包囲された家、火鉢があって冷蔵庫がない、木造の大きな家に六人が暮らしている。トイレは離れのボットン便所で、外には牛がいる。近くの川は大雨が降ると氾濫して、よその牛がドンブラコと流されていく……。

 一九九〇年代に関東の子どもであったわたしは、令子の語る一九六〇年代・東北での子ども時代の断片を、つぎはぎにつなぎ合わせてはどうにかそこにいた小さな令子を思い描こうとした。あまりうまくできなかった。ちょっと日本昔ばなしの世界みたいなのだ。実際に昔ばなしではある。自分のたった一世代前にはそういう世界がひろがっていたなんて、だったらもうひとつふたつ前には竜が存在していたっておかしくない気がする。とにかく、令子の子ども時代はそんなふうであったらしい。凛とした冷気を吸って、白い息を吐く雪の上の小さな令子をわたしは漠然と思い浮かべる。これはわたしが母としてしか知らない・知ろうとしなかった令子というひとりの女を見るための、その解像度をなんとか少しでも上げるためのお話だ。

 令子の父はたくましい体をした寡黙な人で、その時代の父親らしく、子どもらには距離をもって接した。子ども時代の父親との関わりについて令子が人に語るエピソードといえばほとんどひとつだけだ。
 「冬の日に濡れた手袋が火鉢の近くに干してあった。なぜかはわからないがそれがたまらなくおかしくて笑ったら、父が咎めるように『何を笑っている』と言った。でも顔を見ると父も笑っていた」
 というもの。父親となんでもないことで笑った、それだけのことが、令子の記憶に深い印象を残した。

 一方、母親は情にもろく共感性が異様に高い人であった。彼女の人への共鳴は時に劇的だった。あるとき、下校中だか、妹が派手に転んで脚を怪我してしまったことがあった。ひざがぱっくり切れて血がだらだらと出ていた。それで居合わせた令子が妹を背負って家に連れ帰った。小学校低学年の妹を小学校高学年の令子がおぶって歩いた。やっとのことで家に着き、母を呼んだ。母は娘の出血した傷口を見るなり気を失った。
 「あんまり痛そうで気が遠くなった」と本人は振り返ったが、令子は内心で「いや、なんであんたが倒れるんよ」と呆れた。
 そういうエピソードはいくつもある。母親は心の優しい人だが大事な局面で頼りにならないところがあった。令子は自分がしっかりしなければという思いを胸に大きくなった。母と反対に人から冷たい印象を持たれやすい人間に育ったのには母のそういう性質との兼ね合いが、少くとも無関係ではないだろう。

 加えて三人兄妹の中間子であったことも令子がしっかり者に育つ要因のひとつになった。十歳のころには家族の分まで弁当を作り、妹の世話もよく見て、学校の成績は優秀で、両親と衝突することもあまりなかった令子。親から見れば「手のかからない子ども」「よくできた子ども」というところだろうか。いや、もしかすると一九六〇年代の長女にはあたりまえに要求されていた能力だったかもしれない。その令子から見れば、兄も妹も、大人からいつも無駄なところで叱られていて要領が悪かった。とくに、何かと母親とぶつかっては泣いたり悔しがっている妹のことは「もっと上手くやればいいのに」と冷めた目で見ていた。令子は上と下のふたりがとる愚かな行動の逆をひとつひとつ冷静に選びとり、たいていのことを要領よくこなした。

 今日の見方をするならば家庭において「小さな母親」としての役割を担わされていた令子は、それでいて学校での勉強も得意で、とくに理系の問題を解くことを楽しんだ。しかしいわゆるガリ勉タイプではなく、運動も長い手足を使いこなして人よりできた。高校生のときには長身を見込まれバレーボール部の助っ人にかりだされもした。
 友人は男女ともいた。このころには「サバサバした女」を自認していた令子は、どちらかといえば男友達とのサッパリした友情を気に入っていた。「ネチネチした女」は嫌いで、親しくなるのは自分と同じようにサバサバした(と令子が認めた)女たちだった。サバサバしていない男については「女の腐ったような男」と呼んで蔑んだ。女のネチネチしているのは遠ざけるだけで許せても、男に見られる同じ性質は許せなかった。

 高校を卒業すると東京に出た。はじめてのひとり暮らしだが、令子にはこれまでに身につけた家事の実務能力があり、生活上の困難はなかった。医療系の資格を取るために専門学校に通った。実習と勉強漬けの二年間だった。アルバイトをする時間の余裕はなく、実家からの仕送りで暮らした。そしてそのまま関東の病院で仕事を得、地元には戻らなかった。

 実家には兄が残り、米農家としての家業を継いだ。兄は妻を迎え、ふたりには子どもも生れた。二世帯で実家に暮らすようになり、令子の育った家は長男である兄のもの、という雰囲気が年々強まっていくことになる。
 妹は地元で結婚し、夫ととなり街に居をかまえた。その家も実家まで車で十五分くらいの距離だったから、実家とのやりとりは頻繁にあった。
 兄妹のなかで令子だけが地元を離れたが、離れた家族との関係は良好に保たれた。少くとも令子にはそう思われた。忙しくても折にふれて実家に顔を出したし、母や妹を招んで東京を案内することもあった。

 医療系の国家資格を得て勤めはじめた令子は、ひとりで生きていく力を得ていた。金銭を稼ぎ、生活力もある。世の中の景気もよく、少なくとも先行きが見えないだとか、そういう気分の蔓延する時代ではなかった。一九七〇年代に経済的自立を得た女性であることは、令子の強い自負となった。

 勤め先の病院は大きく、令子の職域は女性が多かったから、最も苦手とする「ネチネチした」女の世界そのものが側にあることを令子は意識していた。さらに悪いことには、そういう女たちの上にはさらにネチネチした男が権威をふるっているのだった。粘ついた人間関係はしょっちゅう令子の脚にもからみついてくるように思え、煩わしかった。しかし仕事であればうまく立ち回ることができた。

 令子は慣れない土地での居場所を職場以外にも見出していた。例の宗教的サークルだ。宗教的ニックネームを授けられ、瞑想を主な活動とする宗教的サークル。令子は知り合いからの紹介でこの場に辿り着いた。この場において性別は重要視されるものではなく、各々に与えられた宗教的ニックネームだけがあった。その名で呼びあうとき男女は分け隔てのないものであり、ここで令子は多くの男女と親交を深めた。男と女とでかなり職域の分かれる職場とは大違いである。令子はこの場を必要とし、またここの人々も令子を必要とした。やがて同じく宗教的ニックネームを与えられし清史と出会った。

 令子と清史。地方から東京に出てきて一人暮らしをしている点で共通している二人だった。だが手に職をつけ組織に属して働いていた令子に対し、五つ歳上の清史の暮らしぶりといえば学校に通ったり通わなかったり、アルバイトをしたりしなかったり、どこかふわふわとしたものだった。また農村でしっかり者の長女として育て上げられた令子と、裕福な家で五人きょうだいの末っ子として母親や年の離れた兄・姉に可愛がられて育った清史とは、かなり気質が異なった。恋愛のはじめにおいてそのでこぼこさはしかし、よい作用をもたらした。令子は清史のお坊ちゃんらしい大らかさに惹かれたし、かわいいと思った。清史のほうはかわいい人として扱われることに慣れており、またその立ち位置は素直に心地よいものだった。ふたりは宗教的サークルでの親交のなかで互いへの好意を育み、ほどなく付きあうようになった。そして令子二十五歳、清史三十歳の年に結婚した。

 結婚に先立ち、令子の両親に二人連れ立って挨拶に行ったとき、清史は今でいうニートとフリーターの境界あたりを彷徨っていた。令子の両親は苦言を呈したりしなかった。令子が選んだ相手ならばと、しっかり者の娘の選択を信頼してのことだろうと令子は思った。実際、令子に迷いはなかった。清史の就労状況を気に病むどころか、自分が養えばいいのだと大きく構えていた。好きで一緒になる男なのだからと。清史とは愛と信頼で結びついていた。

 結婚後も宗教的サークルの集まりに顔を出し続けた。地元の遠いふたりにとって東京の友人は宗教的サークルの構成員がほとんどだった。宗教的サークルの教祖的存在が結婚制度をあまり前向きには捉えていなかったことから、令子と清史が結婚したことについてあれこれ嫌味を言ってくるメンバーもいた。しかしそれはほんの一部の人間で、気のいい友人らは二人を祝福してくれたから、令子は気にしなかった。だいたい、メンバー同士で結婚したカップルはなにも令子と清史ばかりではなかった。夫婦の何組かは生まれた子どもを集まりに連れてくることもあった。

 二人は東京近郊に部屋を借りて住んだ。令子は住まいの隣県にある勤務先の病院に一時間半かけて通った。清史は令子とは異なる国家資格を取得し仕事に就いた。清史は仕事に勤勉に励んだが、職場の人間関係などで想定外のトラブルが起きるたび、頑固さと傷つきやすさを発揮して比較的容易に職場を辞めた。すぐに次の勤め先が見つかることもあったし、そうでないときもあった。清史に仕事のない期間にも、令子の安定した職と収入により夫との快適な生活は守られた。派手な贅沢のできる暮らしではなかったが、倹約をするほどでもなかった。清史との結婚生活は穏やかに楽しく過ぎた。

 そして一九八〇年代の半ば、結婚して五年ほどが過ぎた春、令子はわたしに出会うことになった。



つづく

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