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母のこと、大きなレイコ

 母をおかあさんやママと呼んだことがない。そう教育されたのだ。わたしが母に声をかけるときの呼び名はずっと、母と父が所属していた宗教的サークルにおける母の宗教的ニックネームだった。

 母と父は宗教的サークルの東京支部で出会い結婚し、わたしが生まれてからもそこの集まりに顔を出していた。幼いころ両親の周りにいた大人たちはサークルの構成員ばかりで皆母と父を宗教的ニックネームで呼んだため、母をそう呼ぶのはわたしにも自然なことだった。家で父が母に呼びかけるときの名もそれだったし。
 父の宗教的ニックネームは幼いわたしに発音が難しかったせいか定着しなかった。だからといってお父さんやパパと呼ぶことにはならず、父は独自のあだ名を考え出してわたしに教えた。
 わたしは母を宗教的あだ名で呼び父を父考案のあだ名で呼ぶ子どもになった。

 幼稚園に入るまで、周りにいる子どもといえば宗教的サークルの構成員の子どもらだったから、わたしが両親をニックネームで呼ぼうと奇異の目で見られることはなかった。どころかわたしたちは互いの親のこともそれぞれの宗教的ニックネームで呼びすてにしていた。そこに「○○ママ」「○○のお父さん」は存在せず、ただ与えられた名を持つ個人個人が居た。

 これ、どうだろうか、大人たちにとっては理想郷のような場所だったといえるかもしれない。誰かの妻や夫や母や父になっても名前を奪われない、自分たちの望む自分たちでいられるユートピア。
 大人たちが求めたのはそれかもしれないからよかったねって感じだけど当時子どもだったわたしの立場からするとちょっと、だいぶ、気持ち悪い。その宗教的ニックネームは親たちが所属を決めた宗教的サークルのものだったから。わたしがそれに付き合わされるのは妥当だったのか?

 すぐにそう思ったわけではなくてすこし後から。社会がせまってきてからだ。

 大人はいい、社会的生活を営みつつもときどきユートピアをたずねてその居心地よい共同体に心だけ引きこもることだってできる。心の中に線を引くだけの経験と力をもっている。
 幼い子どもは社会がやってくるのをほとんど知らない、社会はそんな子も放っておかない。気がつけば社会に包囲されてその中で昼の大半を生きていかねばならないことになっていて、母を父をニックネームで呼ぶアカリちゃんに学校という突然デカい単位の社会生活はなかなかのサバイバルだった。

 小学生にもなれば他の子らが親を宗教的ニックネームで呼んでいないことがすっかりわかり、それでやっと、わたしのおかれた環境のちょっとした特異さに気づくことになった。そして違和感をおぼえた。わたしは親の都合で何かを押し付けられているのではないかという最初の疑念。

 両親をあだ名で呼ぶことを恥ずかしく思いはじめた小学生時代、しかし今さら「おかあさん」「おとうさん」などとは呼べない。突然変えたら二人にからかわれるのは目に見えていたし、そもそも二人とも「そう」呼ばれるのをよしとしないからあだ名を定着させたのだ。子どもにもそれくらいはわかる。わたしは三人家族の唯一の子どもとして大人のある種の意図をよく感じとるように出来ていた。

 だから家では変わらず母と父をそれぞれの望むあだ名で呼び、外では早いうちから「母おや」「父おや」という言葉使いを覚えた。
 この呼び分けは小学生のうちにはミスが多く、友人の前で母の宗教的ニックネームを出してしまい変な顔をされたことは何度もある。
 一方家庭内でも深刻な親子げんかのときなど両親を気の抜けたあだ名で呼ぶのに強い抵抗の出る場面が増えていった。そういうときには「あなた」や「あんた」と呼びかけてますます怒らせた。

 何かと不都合を抱えながらもわたしはずっと両親をそれぞれの望む名で呼びつづけた。二十一歳で二人の家を出てからもさらに数年は呼びつづけたが、突然この人たちの都合にいつまでも付き合うのがばかばかしくなり一方的にその呼びかたを廃止した。

 「おかあさん」「おとうさん」に変えるのはこのときもありえなかった。恥ずかしさはもはや関係ない、わたしはまがりなりにも独立した大人で、二人に何をからかわれようと無表情で押し通す強さ(二人に対する強さだ)を身につけていた。

 理由はほかにあった。呼び名とは重要なものであるらしい。ずっとあだ名で呼びかけてきた母と父はわたしにとって「おかあさん」と「おとうさん」ではないのだった。二人は血縁上も養育をはたしてくれた存在としても間違いなくわたしの母と父だ。でも決して「おかあさん」と「おとうさん」ではないしこれからもそうならないだろう。

 わたしは母を単に「令子さん」と呼ぶようになった。父は「清史さん」。それが二人の名だ。実際に母と父の前でそう呼びかけてみると抵抗感がまるでなかった。ひとつしかない正解にたどり着いたという感慨があった。違和感や後ろめたさなく母と父に呼びかけることができる。それだけのことに感動した。母と父の感想は知らないが文句は出なかった。ふん。そんなわけで三十も近くなったころにわたしはやっと二人のゲーム盤から下りることができた。のだが。

 ここ最近、気がつくと令子のことを考えている。ずっと考えないようにしてきたのに。わたしのなりたちを考えるうえでやはり避けて通ることのできない存在ということか。
 子どものわたしに令子はいつも巨大だった。大人になって普通に等身大の(平均よりはたしかに大きい)彼女を見られるようになったと思っていた。今でも結局巨大なのかもしれない。

 むかしむかし、わたしがまだ小さくて、両親の家に暮らしていたころのこと。令子とはひどく折り合いがわるかった。
 令子は正しさの人だった。彼女の常識が家庭における正しさであり、そこからはみ出すわたしや清史の行動は正しくないものとされ、叱られ見下され嘲笑された。
 本当は正しいのではなく、正しさを作る権力を有していただけなのだが、令子はずっと履き違えていた。
 彼女の都合ひとつで日々姿を変えていくように見える正しさにも、わたしは抵抗する力を持たなかった。清史は大人だから令子のものさしをのらりくらりとよけ、笑って無視することもできた。対等なのだ。一方わたしが令子の正しさに石を投げれば金銭的に・物質的に・食糧的に制裁がくわえられるのだから、抵抗なんて無駄なこと。対等ではないのだ。

 当時の大まかな感情で言うとわたしは令子がきらいで清史をすきだった。清史はいつもきょうだいのようにわたしと遊び、口うるさく何かを押し付けることをしなかった。

 今考えるとでもそれ、女親にいやな役割を全部おっつけて男親だけ子どもにいい顔していただけなんじゃないの。という、昭和・平成親あるあるだとも思う。夫婦って、とくに親をやる夫婦ってセットだから、一方が放棄したものはもう一方が肩代わりすることになる。わたしの両親では令子だけが管理的な親の役を背負わされ、過剰に嫌な女にされていた。結果清史はおおらかでいられたのだし、子どもに好かれた。女親からすると「けっ」て感じだろう。
 令子は会社勤めをして清史と同等に働きながら家事のほとんどを担っていた。必要なときわたしの学校・学童に出向いてくるのもいつも彼女だったと記憶している。
 今でこそ無邪気だった清史のえげつなさがわかる。令子がわたしの目にいつも余裕のない、いらいらした、嫌な女として映ったのは、少なくとも半分まで清史のせいだった。

 それでもやっぱりわたしには令子が問題だ。
 清史のことはあまり思い出さない。子ども時代のつらかった時期を振り返るとき、彼の影は薄い。彼は面倒な思春期をむかえたわたしと向き合うことをほとんど令子に一任していて、ぶつかることが少なかったのだろう。わたしの中に清史に関する引っかかりはあまりない。良くも悪くも。手放しにすきという気持ちもとうにないけれど。

 令子。大人になり、ほとんど完璧に影響下を脱した今になっても、彼女との軋轢の記憶が小骨のように引っかかっている。最近になってその存在感が増したように感じられるのは、やはりわたしが母になったからだろうか。子どもに声をかけるわたしの声、その響きの中に、たびたび令子の影を見る。凍てついた有刺鉄線でわたしを締めあげるように感じられた令子の声、まさにその声が、わたしのに重なる。そんなとき、息が小さく止まる。

 令子はわたしにとって依然大きな存在であり続けるようだ。
 考えないようにすることをあきらめた。わたしは大人になってまで親のことをうじうじと悩み続けることを「なんかダサい」と決めつけていたのでもうずっと、令子とのことを深く考えないよう努力してきたのだが、三十四にもなると「あーもうダサくっても別にいいです」という感じで大してこだわりなく努力を放棄することができた。夜な夜な令子との(たいていは不快な)思い出が頭に浮かぶのもそのままにしておいた。
 むかむかするのにも飽きてきたころ、彼女がほんとうはどういう人間であるのか考えるようになった。どういう成り立ちであの人はわたしの知る令子になったのか。令子という個人名で呼びながらも結局、母親としての彼女しか知らないのだ。

つづく


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