三つ子のMtFの魂百まで──性器の話

自分の母子手帳を見たことが2度ほどある。1回目はすごく小さいときだったので、自分の足形を見るくらいだったが、2回目はもう大人になってからだったので、母子手帳に書かれた生みの母の言葉を読むことが出来た。

その内容は狂気そのものだった。世界中の戦争や紛争のこと、飢餓のこと、世界の不公平性などについて、そんな暗澹たる未来を生きて行くであろう、これから生まれてくる自分の子どものためにひたすら嘆いていた。そこには新しい命に対する喜びの記録は何ら無かった。私は、「この人は狂っている」と思った。いや、狂っていると言うよりも、妊娠中、過度の抑うつ状態になっていたのだろう。鬱と言ってもよいかもしれない。

かくして、過度のストレスでホルモンバランスを崩した母胎からは、「ホルモンシャワー説」に従って、私という、中途半端な性別の人間が生まれてきた。生みの母はいつも私の睾丸を探していた。何歳かになってからは普通に存在したような気がするが、私が熱が出る度に、生みの母は私の頭だけではなく、睾丸も冷やした。そうでないと、子どもの作れない体になると言う。恐らく既に私に体にはもう既に生殖能力はなかったと思われるが、生みの母は必死に私の睾丸を守ろうとした。熱を出す度に睾丸を冷やされる思い出。それが私の幼い頃の記憶だ。今の姉が驚いたことには、私が24歳のときに重いインフルエンザにかかって高熱を出したときも、私は姉に睾丸を冷やすように頼んだという。すでに生殖能力が無いことを私は知っていたが、小さな時からの習慣が自然と残ったままだったのだろう。

私は自分の性器を普通だと思っていた。1歳少し違いの弟とはずいぶんと形状が違うと気が付いていたが、それは弟のほうがおかしいのだと思っていた。いつも睾丸探しをされていたので私は睾丸の入る袋をいつも触っていた。そして、掻き壊してしまい、常に血が出てかさぶたがでては痒いのでまた掻いて血だらけになるという悪循環に陥っていた。私にとって、股の間に付いていているおかしな形状の物体は、苦痛そのものだった。8歳になったとき、弟と従兄弟の男の子が彼らの性器を見せてくれた。もはや私のものとは全然違っていた。私は自分こそが異常なのだと思い知らせると同時に、ホッとした。私は男ではない。初めて合点がいった瞬間だった。そもそも男児用のトイレで立っておしっこがろくにできなかったのも当たり前だった。幼稚園では男子は個室には入りづらいので、私はいつもトイレを我慢して一度は尿毒症になって救急搬送されたこともあった。

最初に自分が写った写真を見せられてそれが自分自身であると気が付き、そのあまりにもの醜さに嫌悪感を抱いたときから、私は男の子としての自分が大嫌いだった。七五三だと言って紋付き袴の格好をさせられたときには吐いてしまって結局、写真も撮らず仕舞いだった。そのくらい、自分が男児として扱われること、典型的な男児の格好をさせられることが嫌だった。

ここまで振り返ってみると、私は典型的な男性として体が育っていないことに気が付く。高校生の頃には胸がすでにあったし、実を言うと、思春期の男児らしい性欲というものはほとんどなかった。男性の振りはしていたが、私とうり二つと言われるくらい似ていた同窓生の卒業写真は綺麗な女性に加工されている。男性ではあるものの、どこか中性的、もしくは女性的。そういうキメラ状態の自分の体に気が付きながら、当時文学雑誌などに載っていた性転換者の手記やインタビュー記事を読んでいた。そして、いつか自分も性転換手術する日が来たら、どのような気持ちになるのだろうかと想像していた。ただし、私は生まれつき心臓がとても悪かったので、出来そうな気はしなかったが。それにしても、ある文学雑誌に載っていた性転換者の「本物の女は子どもが産めるからずるい!」という発言には未だに納得がいかない。それは「ずるい」と表現すべき事項なのだろうか。「うらやましい」と言うべきだろう。

私の性器をまともに診察してくれた医者は45歳までいなかった。45歳のとき、セルビアでSRS(性別適合手術)をしている専門病院を訪れたとき、初めて詳しく調べてもらえた。医師は最初診たときに「あっ」と小さな声を出した。「部品が足りないかもしれない……」と言いながら、それでも子細に検討してくれ、「大丈夫。工夫してなんとかなります」と言ってくれた。もちろん、私は手術は出来ない。長時間の全身麻酔を認めてくれる麻酔医はいなかったし、私の体の弱さを知っている精神科医も決して了承のサインをしなかった。私はお金は全部、特別養護老人ホームに入れることになった養母にセルビアから送り続けることにした。助手の先生はそんな私を見て、「手術が出来る日が来たら、教授に必ず手術費のディスカウントをお願いするからね!」と言ってくれた。家族を第一にするセルビア人は、SRSよりも母を第一にしている私の姿に感動してくれた。

今回は性器の話を少ししてみた。こういう話は人生の中で何度もするようなことではない。あまり具体的には描写できなかったが、要は、男性器風ではあっても、小用ではボタボタと漏れてしまうから立ってすることは出来ないし、泌尿器ではない大をする場所ですら排泄に困難がある。性分化疾患だとは診断されたわけではないが、少なくとも男性泌尿器としてはとても問題がある。とは言え、女性器とも全く言えない。実際のところは、異常発達であり、それは性器や生殖器のみならず私はいろんな点で中性的であるし、そもそも戸籍に登録してしまった性別と、自分が認識する性別は結局は正反対だった。

不幸な話を書こうと思ったわけではない。ただ、私はこういう風に生まれ育ったという話に過ぎない。私にとっては今でも何も手を下せないことであり、そのままの状態で生きているに過ぎない。玉は何の機能もしないままそのまま放置しているが、今でもたいていは体の中のどこかに散歩に行っていて、私の股はコンパクトだ。

※MtF(トランスジェンダー)だと便宜上名乗ることが多いが、私の実際はインターセックス(性分化疾患、DSD)+トランスセクシャルであると考えている。

2021年09月30日記

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