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今日の日はさようなら

最近の私は、特定の友人になにかと『気にしないで』という言葉を多用している。

気にしないで、というのはつまり、『わたしのことは放っておいて』という意味だ。さらに噛み砕くとするならば、『これ以上関わってくんな』という、ほとんど拒絶に近い感情なのだと思う。自分の心を守りたい、それだけのために。

何か一つの側面がうまくいかなくなると全ての関係を断ち切りたくなる、そんな悪癖が私にはあった。これまで、この癖のせいで多くの友人関係をプッツリ途絶えさせてきた。そうやって、弱い自分と向き合うのを逃げてきたのだ。

友人の何気ない一言に傷ついたり、腹を立てたり、一挙一動の裏を探ったりして、勝手に疲れ切って終わらせる。そういうどうしようもないことを、この20年間幾度も繰り返してきた。

そして、ようやく気づいたことがある。どうも私は、やさしい人でないとうまく付き合うことができないようだった。今まで友人になってくれた子は、みんな私にとても優しかった。私を否定せず、いつもやりたいことに付き合ってくれて、遊んでいるとお互いを褒め合って時間が流れた。友人は私を否定しないし、私も友人を否定しない。一緒にいると、とても優しい気持ちになれた。

でも最近、私は、新しくできた友人たちに優しく接することができない。一緒にいると虚しく、心が『距離を置きたい』と訴えているのがひしひしと伝わってきた。それは、"優しさを与えられていないから"だ。つまり私は、今までの友人に対して、"与えられてきた優しさ"を、与えられた分返していただけにすぎなかったのだ。

だから、冗談でも人を弄ったり否定したり、自己中心的だったり、そこまで人に気を使わない、優しさを与えてくれない人とは、いつもソリが合わず、関係が破綻していたのだ。与える側になる度量を持ち合わせていなかったばかりに。

これではいけないだろう。生き辛いだろう。なぜか。これまでは偶々当たりくじを引いてきただけで、世の中は与えてくれる人ばかりではないからである。

私事ながら、明日で21歳を迎えるが、これからは、人から与えられるのを待つばかりでなく、自分のことは自分で満たせる、そんな人間であるよう努めていきたい。自分自身が満たされてこそ、はじめて、誰かに何かを与えることができるようになるのだと思うから。

今まで私に優しさを与えてくれた友人たち。本当にありがとう、そして、これからもどうぞよろしくお願いします。これからも私はあなた方に与えられた優しさを返していきます。そのほかの友人たちは、また会いましょう。いつか私が自分の足でしっかり立って、与えられるようになる日まで。そのときまで、心に薄い膜を張って、自分を守る臆病な私をどうか許してほしい。断ち切るなんてもうしないから、だから、今日の日は、穏やかなさようならをしよう。