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スガのP

スガに対して怒っている。いろんな意味で怒りが止まらない。

そして、怒っているうちに、ふと考えた。僕は、彼の政策や政治思想よりもむしろ、原稿に糊がついていたり、大事な集まりに遅刻をしたり、という、いわば「常識のなさ」みたいなことに怒っているのではないか、と。


「自助」を最優先する政策や、新自由主義的な思想に対しては、怒っているというより、批判している、と言ったほうが正しい。そうなのだ。批判の対象なのだ。

だから、心理学理論のひとつである交流分析(TA)で説明すると、人の中にあるという3つの自我状態(P・A・C)のうち、大人の自我状態(A)が働いて批判している。

これに対して、原稿に糊がついている(という子どもじみた言い訳をする)、とか、大事な集まりに遅刻をする、とかに対しては、僕の中の親の自我状態(P)が働いていて、いわば反射的に怒っているのだ。

そして、怒られているスガのほうは、子どもの自我状態(C)だろう。文字通り、子どもじみた失敗をしでかして、子どもじみた言い訳をしているのがその証拠だ。

さらに考えた。スガという人物には、親の自我状態(P)が足りないか、元からないか、どちらかなのではないか、と。交流分析の用語でいうなら、Pが汚染、もしくは除外されているのではないか、と。

そう考えれば合点がいく。新型コロナウイルスの蔓延に対する無策や、世論の反対を押し切ってのオリンピックの強行開催など、まさに「子どもの戦略」ではなかろうか。そして、一度決めてしまったことを撤回できない、過ちを過ちと認められない頑迷さ。それも「子ども」のなせるわざだろう。

専門的に言えば、二次構造分析でいうところの、子どもの自我状態(C)の中にある大人の自我状態(A1)が働いて、問題を子どもじみた方策で解決しようとする、いわゆる「A1戦略」を使って、スガは国の重大な問題に取り組んでいる可能性がある。

いやはや、大変な人物に、国の舵取りを委ねてしまったものだ。


そしてそして、さらに考えると、アベもPのない人物だった、河村たかしもPがない、などと思い当たり、もうこれは、現代日本社会に、圧倒的にPが足りないのではなかろうか?という、ひとつの仮説を思いついたのだが、このことについてはさらに考察を深めたい。


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