紫陽花
考えはあちこちで浮かんでいる。
そこのおじさんにも、そこの子供にも、わたしにも。
考えだけじゃない。すべてがあちこちで。
それは、どっちかというと「 あちこちで咲いている 」っていう表現のほうがしっくる。そして「 あちこちで咲いている / 生じている 」というよりも「 あちこちなんて、ない 」っていうほうがもっとしっくりくる。あちとこちは別々のなにかではなくて、全体というひとつ色々あれこれ。
それはアジサイの花のグラデーションみたい。
いろいろだけどすべてアジサイ。
それを「すべては神だ」とか表現したりする。すべては神の顕現だと。
それは完全なシステム、隙のない合理性、秩序。二択はなくて、ただ全体としてのひとつがある。脅威のなさ、守るべきもののなさが消えたとき、均一さが露わになる。
“もし、特に何かをしたり、こうあろうとする努力もせずにただ座ってみたとき、それでもあなた自身も含めて人生は起き続けていますか? もしこの質問にイエスと返事をしたなら、あなたのすべての経験において、存在とは絶対的に自動的にただ起きているはずです。それはあなたの経験でしょうか?”
ダリル・ベイリー「ファンタジーの終焉」p115
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