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理解と受容。

マインドでみているものを、ハートでみてみたら、
どんなふうにかんじるだろう?

マインドの「わかった」は 理解。
ハートの「わかった」は 受容。

マインドは「 わかった or わからない 」なぜ?どうして?意味や理由、裏付けや根拠、データが必要。それがないと「わかる」ができない。判断、分断、ジャッジ。分離の視点。

ハートのわかったは 「溶け合う」  それを「受容」「許し」「ありのまま」「愛する」などと表現したりする。言葉、言語的ななにかを必要としない。意味価値、理由などの条件を必要としない無条件の理解= 受容 非分離。

この受容を求めてマインドはあれこれ試行錯誤していて「ひとつになろう」と頑張っているのだけど届かない。「つかめそうで掴めない」というのがマインドが到達できる上限であって、どこまでもいっても「惜しい」のは、マインドが言葉だからだ。言葉という道具を持ったままでは通れない。

マインドからハートにおりてくると、こだわり(深刻さや重要性、しつこさ)が「ま、いっか。」気楽さに変わったりする。 マインドにおいては夢中になっていたものが、どーでもよくなるというか、 それとこれとの違い(差)が見つからない=気にならなくなる。手放し、わすれてしまう。

ホオポノポノや慈悲の瞑想でおこなっているのはここ( ハート、受容、非分離 )ハートでおこなう、またはマインドから離れてハートに立ち返るためのメソッド。ハートでみてみる、マインドからハートへスイッチング(切り替える)。

あなたは頭にいない。聖心(ハート)にいる。これは比喩であり、比喩ではない。だから、愛について考えることは止めなさい。愛を理解しようとして頭に住んでいてはいけない。愛を理解したいなら、愛を直接知りたいなら、ただ、沈黙に耳を傾けてごらん。あなたの胸に、耳を傾けてごらん。 ”それ”は在るより‏

かんじるココロケア あまのこころ http://cocoronowa.jimdo.com/


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