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だって優しくするしか私に価値はないじゃん、その生き方をあなたの価値観で潰されたら私にはもう何処にも居場所なんてないよ

どうも、えぐじっとです。

今回は、普通の特別な女の子になりたかった私が、そうじゃなくても、幸せになれそうだなって思ったって話。ちゃんとした「優しさ」をもらえたから。

私が初めて男性を知ったのはこのタイミングです。この記事を読んでからじゃないと多分私が何を考えているのかわからないだろうと思うから、よかったら上の記事を読んでからできればこの記事に戻って来て欲しいな。

まあ上の記事に書いてあるとおり、私はレイプされました。もちろん怖かったけれど、でも痛かったとか、処女を失ったからとか、私が感じたのはそういう苦しみじゃあなかった。

前初めて会った友人に「えぐじっとは処女喪失の、何が辛いと思ったの?今はそういうことするのに抵抗ないよね?」と言われました。もっともな疑問です。

メンヘラだったら「彼は私のことを穴としてしかみてくれないの」って愚痴るだろうし、フェミニストだったら「女性性の搾取」だと声高に叫ぶでしょう。相手が友達であったとしても「私は○○ちゃんに利用されているように感じる」と言って怒ることもあるでしょう。

私が2015/09/19に感じた苦しさは、そういったもの全てを凝縮した何かでした。

前の記事で私はアダルトチルドレンを引き寄せがちだと書きました。それ自体はとても嬉しい(こんな言い方したら変だけれど)ことです。だってそんだけfragileで用心深くなっているであろう人たちが私のことをそんなにも信頼してくれるということだから。

だけど、そういう人たちの相手をするのはやっぱりしんどい。お弁当を食べられてしまうくらいならいいけれど、彼・彼女らがしんどい時に、私が引き摺られてしまったらなんの意味もない。自分はしゃんとしっかり立ちながら、それ以外の社会生活を成り立たせながら、今本当に彼・彼女らは助けを必要としているのか、いつどのタイミングで相手に手を差し出すことが本人にとって一番助けになるのか、そのアンテナを立てていなくちゃいけない。ある意味、「自分を殺す」ことが必要なタイミングが多くあります。

私はいつしか自分自身のアイデンティティをそこに置いていました。

母は私を「偏見を植え付けることののないように、自分のせいで娘の可能性を狭めることがないように」と、私のことを随分可愛いがりながら育ててきました。できる限り良質な世界を私に見せるため、勉強を一生懸命教えてくれました。私はおそらく、他の多くの子供よりも、ずっと多くの時間を母と過ごしてきました。そんな母が「あなたは天使みたいに偏見がなくて優しい」と言って育てるものだから、私は天使でいなければならないと思い続けていました。求められたら助けなきゃいけない。身勝手な理由で怒ってはいけない。常に優しくあらねばならない。母を責めるつもりは一切ないけど、私にはそういうプレッシャーが、今でも重くのしかかっています。

小学生の頃から、自分を虐めてくる相手を基本的には無条件で「赦す」立場をとっていました。2015/09/19の時も、私は彼を許してしまいました。多分中高の友人に聞いてもらえればわかると思いますが、私は、誰かが「不正義を犯した」と感じた時以外、基本的に怒ることはなかったんじゃないかと思います。

優しい事と、怒れない事は、似ているようで全く違います。私はそれを上手に分ける事ができませんでした。

高校一年生、2015/09/19に感じた苦しさをようやく乗り越えるか乗り越えないかくらいの頃、私はサックスの吹ける男の子と付き合い始めました。彼とは一年半付き合っていましたし、私は、彼のことを本当に尊敬していました。

けれど、結局本当に彼と私が通じ合ったことは実は一回もなかったんじゃないかと思います。

彼は、多分、私自身に本当には興味がなかったんだと思います。とってもいい子でした。けれど、私が感じてきた苦しみを理解することは、これから先も、多分一生ないと思います。単純に、私の語る日本語が、彼には通じませんでした。彼が馬鹿だとか言いたいのではなくて、単純に、お互いの苦しみを語る言語を私たちは共有していませんでした。彼も、なんとなくそれがわかっていたのでしょうか。彼は、私の苦しみに立ち入ろうとは決してしなかったし、また立ち入りたがりもしませんでした。

絶対に交わらないものを交わらせようと頑張っていたのは私だけで、それがすごく寂しかったので、もう全部やめてしまうことにしました。

前の記事に出てきたA君もある意味そうでした。彼はとても聡い人だったので、自分がそういう扱いを私にしているということは(これほどはっきり言語化していないなりにも)はっきり理解していたと思います。私を都合良く扱ってしまう自分の適当さに対する罪悪感に彼の良心が苛まれているのを見るのが私は好きでした。悪いことしたとは思うけど、そこに罪悪感を感じてもらえることが、ちょっぴり嬉しかった。けど、嬉しいながらも、やっぱり苦しかった。

そう、ずっとどこかで苦しかった。相手が何を自分に埋めて欲しがっているのか、それを考え続けながら生きていくのは苦しかった。自分の武器は「察しが良い」ことばかりで、読もうとしても全然空気は読めないし、読みたくもないし、だったら人一倍気を使って生きていくしかない、でもそうやってどこか諦めてしまった状態は、酸素が薄かった。

そしてつい先日、もう糸が切れてしまう事件がありました。私からかつてキスをしたことがある真面目な友人の男の子(B君とでもしましょうか)が、ストレートに「セックスさせてほしい」と言ってきて、なんだなんだと思っていたら、彼は自分がとある女の子と挿入直前まで行ったんだけれども、うまくいかなかったという話を長々と話して聞かせてくれました。

私、本当は彼のこととても尊敬していたし、ずっと憧れていたんです。彼もそれは知っていたはずです。それなのに、私は、はっきりと、正直に「セカンド」に誘われていました。多分私は傷つけても良い存在だと思われていたのか、あるいはよっぽど馬鹿にされていたのかまあどちらかでしょう。

ここで大事なのは、彼は、普段は全くそういうことを言わない人だということです。すごく真面目でシャイで、女の子をラーメンに誘っても、恥ずかしくて二回も結局断ってしまう人です。

そんな純情な彼にそんなことをさせてしまう人間だったんですよ、私は。

もうそういう、自分のしょうもなさが全部嫌になって、なんか知らんけどメンブレして、彼氏に別れたい、別れたいってラインを送りつけました。

その時の返事です。

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まあ今までもメンブレして彼氏に当たる事はあったんですけれども、この時は本当にもう限界だったから、優しい言葉をかけてもらって本当に助かりました。ありがとうございました。

彼のおかげで、このあとB君に、ちゃんと自分の悲しかったことをきちんと電話で直接、冷静に伝えることができました。その時に咄嗟に出てきた言葉が「私をモノにしないで」だったんですよね。

そうか、私はモノとして扱われてきたんだな、とつくづく思いました。

そしてさめざめと泣きました。

決して男性経験が少なくない私ですが、私は今まで自分が怒ることのない「モノ」として扱われていることに気が付けませんでした。私はイプセンが言うような「人形」にはなりたくもない。なりたくてもなれない。

優しさを発揮するためには、時には自分の意志で、自分を「モノ」として犠牲にすることが必要です。でもそれはあくまで最終手段です。そこを履き違え続けてきた人がここにいます。

そんな、今までの苦しさを言語化する機会を私に与えてくれたのが今の彼氏です。彼は多分、私のことをモノとして扱いません。ちゃんと何かあったら日本語で話してくれるんですよね。お人形さんにお人形さんの意志を尋ねたりはしませんから、多分これが、男性から人間として扱われるということなんだと思います。

今、私はとても幸せです。彼が怒れないお人形さんの私を人間にしてくれたので。




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