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久々に会うと、気まずくなる現象。

 あまり人見知りはしない方だけれど、久々に知り合いにばったりと出会うと、何を話せばいいか分からなくなる。

 過去の記憶を辿って、どんな顔やどんな言葉で話せばいいのかを思い出そうとする。けれども、すぐにその頃の自分に戻れるはずもなく、よそよそしいままその場を後にすることになる。


 少しまえ、noteのイベントで小説家の平野啓一郎さんが提唱されている「分人主義」という概念について知り、とても腑に落ちた。

 「分人」という概念は、公式サイトで次のような説明がなされている。

「分人dividual」とは、「個人individual」に代わる新しい人間のモデルとして提唱された概念です。
「個人」は、分割することの出来ない一人の人間であり、その中心には、たった一つの「本当の自分」が存在し、さまざまな仮面(ペルソナ)を使い分けて、社会生活を営むものと考えられています。
これに対し、「分人」は、対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格のことです。中心に一つだけ「本当の自分」を認めるのではなく、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉えます。この考え方を「分人主義」と呼びます。

「分人主義」公式サイトより引用

 僕たちは相手との関係性によって、色んなキャラクターを演じていると思う。

 本当の自分というのはなくて、複数の自分を抱え込んでいると思う。だから「本当の自分は、何なのだろう?」と思い悩んでしまうことは、実はナンセンスなのかもしれない。


 ところで、吉本ばななさんの著書『とかげ』の中に『新婚さん』という短編小説がある。

 『新婚さん』では、主人公である"私"がある日の電車の中で、正体不明の男の人に出会う。その男の人は、とつぜん女の人に変身して、私に話しかける。

 そのセリフのなかに興味深い話があった。僕はそれが見過ごせなかった。

「どこの国のものでもない、あなたと、私にしか通じない言葉で話している。すべての人どうしにそういう言葉がある。本当はね。あなたと誰か、あなたと奥さん、あなたと前に一緒にいた女、あなたとお父さん、あなたと友達、その人たちどうしだけのためのたった一種類の言葉が」

(吉本ばなな著『とかげ』(新潮文庫) p15より引用)

 僕たちは、無意識の内にいろんな自分を使い分けていると思う。他人の好き嫌いだけでなく、自分のキャラクターの好き嫌いもあると思う。

 だから一つのキャラクターに固執せず、「分人主義」という考え方を受け入れて生きていくことが大切なのだと分かった今日この頃である。

 改めまして、雨宮 大和あまみや やまとです。最後まで文章を読んでくださり、ありがとうございます。最近、少しずつ長めの記事を書けるようになりました。少しずつですが、書きたいことが思いつくようになりました。
 ぜひ、これからも読んでもらえると嬉しいです。

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小説家の村田沙耶香さんのエッセイ『となりの脳世界』を読んでいると、人の名前が覚えられない話がでてきて、びっくりした。なぜなら、僕もまったく同じなのだから。ぜひ、オススメ記事『人の名前が覚えられない』をご覧ください。

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