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哲学#002.人間とは何か。

冒頭のイラストは、ノーマン・ロックウェルの作品です。彼は20世紀アメリカの微笑ましい市民生活を描き続けた人気作家です。
1957年の作品でタイトルは「After the Prom」。プロムとは学年の終わりに開かれるダンスパーティで、普通は高校卒業の際に行われるようですが、このイラストのカップルはもう少し幼いですね。「初めてのダンスパーティ」とでもいいましょうか。初々しさ一杯です。タキシードやドレスを用意した親御さんの愛情や、ご近所の人々が共に喜んで応援している気持ちが伝わってきます。少年が少女の上着と手袋を持ってあげているのも微笑ましいし、少年から贈られた花束をカフェのマスターに誇らしげに見せている少女も微笑ましいです。2人の幸せを見守ってあげたい気持ちになりますね。ほっこりします。
私は若い頃、辛いことがあるとノーマン・ロックウェルの画集を開いて、その世界へ逃げ込んでいました。そこに「人間らしい生活」と思えるものがあったからです。

というわけで、テーマは「人間とは何か」です。
考えてみてください。他の動物と違う「人間の特徴」は何でしょうか。
まず、「二足歩行」があげられると思います。
二足歩行」によって、人間は「」を他の動物と違う使い方ができるようになったわけです。その結果、人間は「道具」を使うことができるようになったといわれ、それが「進化」のトリガーとなったといわれています。

そして、進化論的にいえば「」を使うことによって、脳の大脳皮質の神経細胞が発達したといわれています。
それについては、カナダの脳神経外科医ワイルダー・グレイヴス・ペンフィールドの研究が知られています。
大脳のどの部分が身体のどの部分をを司っているのかを示したのが、次の図です。の感覚情報が大きな領域を占め、関係性が大きいことを示しています。

の部分も大きいですね。これには発話が大きく関わっているといわれています。
大脳皮質は、知覚思考推理記憶など、脳の高次機能を司っており、この部分が他の動物より優れているといわれています。
認知症予防に「手を使う」ということがよくいわれますが、上記の理由によるものでしょうね。
要するに、人間はを使うことによって大脳皮質を発達させ「道具」を使い、その相乗作用によってさらに大脳皮質の性能を上げ、「言語能力」「推論能力」「問題解決能力」を発達させてきたともいえます。

ここまで考えてきて思い出した映画があります。1968年にアメリカで公開された映画『2001年宇宙の旅』です。アメリカ映画界の巨匠スタンリー・キューブリックとイギリスのSF作家アーサー・C・クラークによって製作された歴史に残るSF映画の傑作です。
類人猿が野生の状態から知性をもった人間へと進化していく姿が、壮大な音楽と映像で表現された素晴らしい映画でした。その中で最も印象に残ったシーンがあります。
それは、類人猿が動物の死骸の骨が道具に使えることを発見し、あるときその骨を空へ向かって投げ上げたのですが、その骨がクルクルと回りながら上空へどんどん昇っていき、一瞬で人工衛星に切り替わるという映像でした。
数百万年にも渡る人間の進化の歴史が一挙に示された瞬間でした。鳥肌が立ちました。感動しました。その時、私は「人間って素晴らしい」と思っていました。

ところが、いま振り返ってみると、類人猿が道具として使っていた骨は「武器」であり、人工衛星は「軍事衛星」であったことに気づきました。
そのシーンを次に紹介しますので、検証してみてください。

2001: A Space Odyssey (1968) - From Bone to Satellite Scene (1/6)


この映画の脚本にも「核弾頭が搭載された軍事衛星」と書かれていたとのことです。
つまり、スタンリー・キューブリックアーサー・C・クラークが表現したかったのは、「宇宙に行けるようになった類人猿も、骨を武器にしていた時代と根本部分が同じで全く進歩はしていない」という皮肉だったわけです。
いまの私には、それがよくわかるような気がします。「人間は道具を進歩させてはきたけれど、人間自体は進歩していない」と思うわけです。いまの世界の現状を鑑みると、つくづくしみじみそう思います。
さらにこの事態は、科学技術が進歩してますます危険なものになっているというのに、それを使いこなす能力がないともいえます。まさに「キ○ガイに刃物」状態というのが、いまの世界の現状ではないでしょうか。
なぜどうしてそんなことになってしまったかというと、やはり「人間とは何か」ということを考えてこなかったからだと私は思います。

大脳皮質の性能を上げ、「言語能力」「推論能力」「問題解決能力」を発達させてきたにもかかわらず、人間は進歩しなかった。
科学技術を進歩させる頭脳はあったけれど、人間そのものを進歩させる性能をもった頭脳の発達はなかったということです。
なぜそうなってしまったかというと、それは、「人間そのものを進歩させる」という「目的」がなかったからだと私は考えています。

科学技術が進歩したのは、人間の脳が「目的達成のためにどんな作業タスク(手順)が必要か」を考えられるようになったからだと思います。
それは自己啓発本にもよく書かれている内容です。成功するには「目的達成のためにどんな作業タスクが必要か」を考えるべきと書かれています。しかし、「人間になるためにどんな作業タスクが必要か」とは書かれていません。

しかし、「人間になるためにどんな作業タスクが必要か」と書かれている本はないわけではありません。それが哲学書なわけです。
で、すでに二千数百年も前からソクラテスとか孔子とかその目的に気づいた人々がああでもないこうでもないと莫大な量の言説を尽くしてそれを表現しているわけです。
人間とは何か」という問題は古代から人々を悩ませ、ソクラテスは「理性をもった動物」、アリストテレスは「社会的動物」、フランクリンは「道具を使う動物」と定義したといわれています。どれもそのとおりだと思います。
ですが、彼らが何を「目的」として言葉を発し続けていたかを考えて読むと、それだけではない部分を読みとることができます。

私も難しい哲学書を読み、記号論とか組織論とか貨幣論とかをいろいろ勉強してきました。若い頃に参加していた哲学勉強サークルの友人で「僕はドゥルーズがわからない」と言って自殺してしまった人もいます。わからなくてもよかったのです。勿体ないことをしました。
イバラの道ではありますが、私の場合は勉強が楽しかったので続けて来ることができました。
で、わかったことなのですが、哲学者たちが一様に語っていることとは、なんのことはない「人間とは道理を求める動物」ということなのです。

道理とは「真・善・美」「倫理」「道徳律」「秩序」「」「良識」のことです。人間とは、それを「目的」として生きる動物だということです。
道理は見せかけのものであってはなりません。偽物ではなく本物である必要があり、その本物を「見分ける力(分別)」をつけるのが「成長」というわけです。
いまの世界がなぜこのように悲惨なことになっているかというと、その「見分ける力」が備わっている人が少ないことが原因だと私は考えています。
私が評価している「儒学」も「見分ける力」が備わっていない人々によっていわゆる「戦争をする国家に都合のいい道徳」として利用されてきました。神道仏教キリスト教も同様です。
そのような欺瞞から抜け出すためにも、いま、あらゆる宗教のとらえ直しが必要な時期が来たとも考えています。

孔子が生きた時代も暴力の連鎖がはびこり、「なぜ人は殺し合わなければならないのか」という疑問が、彼の哲学の出発点だったと思います。
私の出発点も同様なところがあります。戦争も恐ろしかったですが、家族でも学校でも社会でも傷つけ合う人々を見て、なぜそんなことをしているのか、とても不思議に思っていたのです。「何かが足りない」「これは人間ではない」という感覚がいつもつきまとっていました。

孔子の論語で次のような一節があります。
子曰(のたま)わく、政を為すに徳を以てすれば、たとえば北辰のその所に居て衆星の之にむかうが如し
(先生がいわれた。徳を核にした政治は、たとえてみれば、北極星が全天の中心にあり、無数の星がその方向に向いて動いているようなものだ)

天空の星は北極星を中心にして秩序立って運行しています。人間の社会の中心にも北極星のようなものがあれば、人間も秩序立った営みができる。その北極星にあたるものが「」というわけです。

私も道理を理解した人間がそれぞれ秩序立って動いていれば、社会は平和を保つことができると思います。それを学んで成長していくのが人間ではないかと。
その点においては、人間は他の動物より劣っているのではないかと思うところもあります。
たとえば、次のの写真を見てください。群れで移動しているシーンです。

撮影;Cesare Brai

先頭の3頭は年老いた(長老)狼です。次の5頭は力のある前線グループ。その次に普通のグループが続き、その後列にまた5頭の力のあるグループ、そして最後尾についているのが全体を見渡しているリーダーとのことです。年老いた狼が先頭にいるのは、体力がない年寄りのペースに合わせるためと、長老の知恵によって方向を選定するためと考えられています。みんなそれぞれの力に合わせて居場所があり、助け合って移動しています。
ここには、まさしく孔子が語っていた「秩序」があるのではないでしょうか。

Twitterで紹介されていた写真なのですが、「カッコいい」と絶賛の嵐でした。皆さん、この「カッコ良さ」「美しさ」「秩序」がわかるのですよね。これは学習して得た感覚ではないと思います。あらかじめ知っているのです。不思議ですよね。

私は人間もかつてはそのような「秩序」を知っていたと思えてならないのです。知っているからこそ、冒頭に紹介したノーマン・ロックウェルのイラストに人々は「人間らしい生活」を見るのではないでしょうか。
ノーマン・ロックウェルのもうひとつの作品を紹介します。

シャフルトンさんの理髪店

夜の通りを歩いていると、どこからか音楽が聞こえてきて思わず足が止まった。営業を終えた理髪店の中からだった。ウインドウから覗くと、薄暗い店内のストーブに火が燃えていて、奥の開かれた扉から明るい灯りがこぼれ、お爺さんたちが集まって楽器の演奏を楽しんでいた。手前の暗がりの中の猫もそれに聴き入っている。
といった感じでしょうか(笑)。ノーマン・ロックウェルの最高傑作ともいわれ、人気の高い作品です。1950年代のアメリカの古き良き時代を感じ取ることができますね。

私、こういう生活でいいのではないかと思うのですよ。競争して「名誉」とか「地位」とか「お金」とか「高級品」とかを手に入れる必要がありますか? 
いつの間にか人間は競争原理で動く社会を形成してきたように思います。得意で争ってきたのです。その結果が「経済成長」だけでなく「格差」「搾取」「排除」につながった。人々は分断され、仲良くではなく「同調圧力」によってつながらされる方向へ行っています。
孔子の例えでいえば、いまの社会は徳ではなく「利権」「お金」を中心にして回ってしまっています。ですから、人は苦しくなるのです。

ここで軌道修正して、狼のように共生原理で動く社会にしませんか? 得意で争うのではなく、得意で活かし合う社会に。
なぜ人間は、それぞれの力に合わせて居場所をつくり、助け合って生きることができないのでしょうか。
いまこそ、大脳皮質の性能を活かし「言語能力」「推論能力」「問題解決能力」を「人間らしい生活」という目的に向かって作業タスクを進めていくときではないでしょうか。
人間を電池化してWi-Fiでインターネットに繋ぎ、生体ロボット(拙稿31「コオロギを食べるか否か、新生活様式に向かって岐路に立っている私たち」参照)のように監理・支配しようとしている現在の科学技術のあからさまな動きを見ていて、その時期が来たのだと実感しています。「人間ではない何か」になってしまう前に、その道へは行かずに自ら舵を切って人間らしい生活」への方向へ進むことを考えるのも一興だと思います。

人間らしい生活」へのヒントは「共生原理で動く社会」「国家に依存しない地域」「善という方向性」などがありますが、詳細についてはおいおい語っていく予定です。
このなかで重要なのが「」という道理を追求して生きることが人間社会の秩序を保つポイントなのですが、その「」が本物かどうか見極める「判断力」も必要です。また、その「判断力」を養うためには、自分だけのことではなく社会全体を見渡してどうすれば自分が「役に立つ人間」になれるか、考える必要があります。これも作業タスクの1つです。

役に立つ人間」になるためには、正しい「親切心」が必要です。生きるということ、「人間になる」ということは、その「判断力」と「親切心」を養って成長していくダイナミズムだと私は考えています。
私たちにも狼と同じような秩序を保つ「判断力」と「親切心」をもっていた時代があったような気がしています。
なぜなら、ノーマン・ロックウェルの作品を見て、「人間らしい」と感じる感性が多くの人にあらかじめ備わっているからではないかと思うからです。
人を評価する際、私たちは「人間的な人」とか「あいつら人間じゃねぇ」とか言いますよね。人間と「」は密接な関係にあるということを知っているから、そういう言葉が出てくるのではないでしょうか。

日本語というのはよくできたもので、「人間」とは「人の間」と書きます。昔の人は、よくわかっていたのだと思います。「人と人の間」が重要ポイントなのだと。
人と人の間」にあるべきもの、それは「信頼」です。
私が追い求めてきた「人間になる」ということは、「信頼される人になる」ということだったのです。

物事の正邪を見極め信頼される人になる。これがいわゆる「」といわれるものだと思いますが、鍛錬が足りないうちは、どの方向へ行けばいいのか迷う場合が多いと思います。その場合はその道が「美しいかどうか」というのが、判断の助けになると思います。これは古神道でよく言われることです。私もそう思います。なぜなら、上記で述べてきたとおり、私たちはあらかじめ知っていることがあるからです。
次に紹介する狼のリーダーの写真を見てください。多くの人が「美しい」「カッコいい」と感じるはずです。あらかじめ知っているから、そう感じるのです。

撮影;Art Wolfe

人間は大脳皮質を発達させてきたことで、他の動物より優れてきた部分はあるかもしれませんが、それに反して動物にはそれほど学習しなくても備わっている生きるための「秩序」を忘れていった部分があるように思うのです。
しかし、「言語能力」「推論能力」「問題解決能力」を発達させてきたということは、それだけ「自由度」「可塑性」が上がったともいえるわけです。
どういうことかというと、人間は自分の望むように自由に生活を変えていくことができるということです。これは他の動物には難しいことだと思います。

せっかく発達してきた大脳皮質、フル活用して自分の頭で考えて、昔は考えなくてもわかっていたことを思い出しながら行動することで、「美しい」未来を切り拓いていきませんか?


目指すのが生き延びることではなく、人間らしさを失わないことであるなら、事実が明らかにされようがされまいが、彼らにこちらの思いを変えることはできない。

ジョージ・オーウェル


【管理支配システムに組み込まれることなく生きる方法】
1. 自分自身で考えること
2. 自分の健康に責任をもつこと(食事や生活習慣を考える)
3. 医療制度に頼らず、自分が自分の医師になること
4. 強い体と精神をもつこと


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