明日へ向かって 55
長原が続けた。
「薬の副作用ってな悪いだけではないんや。副作用を主作用として利用できることを臨床試験においてきちんと証明できれば、医薬品として立派に成立するっちゅうわけや。サリドマイドのような例はさすがに珍しいかもしれんけど、ファイザーのバイアグラは、開発途中で副作用を主作用に切り替えることで大成功を収めたわけやし」
「そう考えると、今までドロップアウトした薬でも中には別の適用が認められるものもあるかもしれないっすね」啓大が目を輝かせて言った。
「いや、実際に、そうした取り組みをしてるところもあるよ」長原がそれに答えた。
それから話題は、我々は誰のために薬を作っているのか、といったそもそも論になった。
「そりゃもちろん患者さんのためやないんですか」啓大がこともなげに言った。
この問いかけは、希美には難しかった。たしかに啓大の言うとおり患者さんのためじゃないのか?それ以外に一体どんな答えがあるというのだろうか。
「もちろん、最終的には患者さんを救うためやと思う。けど、その前にはもうひとつあって、医師に新しい治療、いまよりもっと効果的でリスクの少ない治療法を薬で提供するという考え方もあるよな」と長原がそれへ答えた。
「医師からのニーズに応えるということですね」啓大の言葉に長原が頷いた。
なるほど、一拍遅れて希美も頷いた。そういう考え方もあるのかと。
「ということは、医師にどんな薬がほしいか聞いてみるとか」
啓大が何の気なしに言った言葉に長原が飛び付いた。
「それ、ええな」
長原の反応に啓大も笑顔で頷いた。
オープンディスカッションはまたひとつ新しい扉を開こうとしていた。
世話人会の開催場所は、大阪駅ビルにある大学研修施設のセミナー室だった。
方向音痴の希美は、何枚も印刷した地図を片手に、立ち並ぶビルをきょろきょろと見回しながら歩いた。住み慣れた大阪の街でも、初めて訪れる場所は、いつでも希美を不安にさせた。
手に握りしめた地図と道にある看板だけが頼りだった。何も目印のない道に出くわすと突然真っ白いパズルのピース一枚だけ渡されたような気分になった。
ようやく、目的のビルに辿り着いたのは開始十分前だった。何とか間に合ったとほっと胸を撫で下ろして、希美はエレベータのボタンを押した。
目的階に着いてエレベータの扉が開くと、目の前にA4紙に印刷された世話人会の案内が貼られてあるのを見て、希美は軽い緊張を感じた。山本さんに会えるのだと自分に言い聞かせながら、セミナー室の茶色い扉を開けた。
部屋はがらんとして誰もいなかった。明かりに光々と照らされた室内は、木製の長机とパイプ椅子が整然と並べられた無機質な空間だった。前面には小さな黒板がひとつ、横にはホワイトボードも添えられていた。部屋の後ろは窓ガラスになっていて、街のネオンが明滅していた。
扉の開く音がして後ろを振り向くと、山本が立っていた。
「あ、森下さんじゃないですか。久しぶり」
「お久しぶりです」
少しも変わっていない。
「元気そうで」
にっかりと笑う山本の口に白い歯が覗いて見えた。
「はい、何とか」
「いまエレベータのところにも案内を貼りに行ってきたとこ」
山本はそう言って部屋の後ろへ行くと椅子に置いた鞄をトンと机に上げてゴソゴソと中を漁った。
「今日って何をするんですか」
「もちろんオープンディスカッション。名物超ロング自己紹介ってな」
希美がクスリと笑った。そうこうするうち、少しずつひとが集まり始めた。
参加者は十名。すべての参加者が、何らかの形で風土改革活動に関わっているとあって、話が始まると、一気に打ち解けた雰囲気が部屋一面に広がった。
希美は、自分でも思った以上にうまく話すことができた。この一年でこれほどまでに自分が他人と、しかも初対面のひとを前にして、こんなにも落ち着いて話ができるようになるとは、我ながらその変化に驚いた。だが、その後のディスカッションになると、希美は完全な聞き役に回らざるをえなかった。
世話人会参加者の業種は、システム開発、運送業、病院事務、市役所職員など様々であった。
希美はそこで異業種コミュニケーションの難しさを知った。同じ仕事をしている仲間であるからこそ同じ問題点を共有することもできれば、それについて話し合うこともできるのである。それが異業種となると、希美にはまったく何を話したらよいのかが分からなくなった。自分にはここで語るべき言葉がないということを知った。
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