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明日へ向かって 97(残りあと3話)

 状況も目まぐるしく変わっていく中、あっという間に最後の日を迎えた希美は、ただその慌しさの中でゆっくり感傷に浸っているような時間もなかった。
 ひとの出入りが一番多かった頃、榎本が異動する直前の二月に送迎会は催された。
 希美も榎本と一緒に主賓として招かれたが、そのときはまだもう少し先のことだと実感はなかった。
 それが一気に時計の針を回したように時は進み、最終出勤日を迎えることになった。
 一張羅のスーツ姿で出社した希美は、朝から最後の挨拶のことで頭がいっぱいだった。いくら人前で話すことは慣れたとはいえ、スライドも原稿もなしに人前で話すことはまた違う緊張が走った。
 とはいえ、残務のやり残しがないかも心配だった。データへの記入漏れなどがないかと朝からファイルをガサゴソといじっていると、主任研究員から、もし何か漏れがあっても何とか対応するから大丈夫だよ、と声を掛けられた。
 たしかに言われる通りであった。わたしでなければならない仕事はもうここにはないのだ。
 最後の挨拶は極めて短く述べた。ただひとつだけ希美が言いたかったことは、風土改革のコラムを読んでほしいという願いだった。
 ちょうど話終えたところで啓大と目が合った。彼には必ず読んでほしいと思った。できることなら、この活動を続けていくコアな人材としての自覚を持ってほしい。
 いや、あんな文章ひとつで、ひとの気持ちが動くと期待する方が間違っているかもしれない。だが、啓大にだけは分かってほしかった。この活動の大切さ、それは会社や組織にとってだけではなく、むしろ自分自身にとってであることをもっとよく知ってほしかった。個人がよくなることで組織もきっとよくなる。組織力の前には、ひとりひとりの力が必要であること、それを知ってほしい一心であの文章を書いた。
 だが、そのことを啓大に直接伝えることはもうできない。あの文章に託した形でしか、彼の思いに触れることはできないのだ。
 花束をもらうといよいよ自分がここを出て行くのだという実感が強くなった。
 みんなの温かな拍手に包まれて希美は何度もお辞儀を繰り返した。そこに、長原と榎本がいないことを少し寂しく思いながら。
 作業着やロッカーの鍵を返しに事務所へ寄ると、これで本当に用事は何もなくなった。
 いよいよこれで最後と、希美は周囲に一言ずつ別れを告げると静かに居室を後にした。
 研究所を出る前にトイレへ寄った。
 扉を開けるとちょうど掃除の真っ最中だった。それを見て出て行こうとする希美を後ろから聞き覚えのある声が追いかけてきた。
「どうぞ、使ってちょうだい」
 いえ、そう言いながらもう一度出て行こうとすると、清掃員はもう一度声を掛けてきた。
「今日が最終出勤日なの?」
 はい、と希美が答えると、そう、お疲れ様、といつもの麗しい声で彼女は言った。
 いつだったか、たしか年末の最終日にも同じように彼女と親しく会話を交わしたことを希美は思い出した。
「そうして若いひとが花束を持っていると卒業式みたいね」
 卒業という言葉を聞いた希美の胸へほんの少し温かさが流れ込んできた。
「ここも新しい場所として生まれ変わるのね」
 ええ、と希美は頷いた。
 ここだけではない。これからこの会社のあらゆる場所で合併の変化が訪れるだろう。
 新しく生まれ変わるという響きはいかにも晴れやかだが、綺麗事ばかりでは済まされない。組織再編の名の下、人員整理が進められるだろう。いくつかの部署は解体され、組織のスリム化が一義的に進められる。組織はこれから大きく揺れるだろう。

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