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サバイバー支援者として癒されることそうでないこと

先月、とある学びのグループに加わった。
学びといっても、このご時世なので全てオンライン。双方向でやり取りする機会もあるが、出られなければ後で録画したものを見られるのは助かる。

先日初めて講師の先生に事前質問をした。その回答を講師にしていただける回にオンタイムで参加できなかったので、あとから録画をチェックすることになった。そのとき私の内側で起きたこと。

私がした質問を先生は取り上げてくれていないかもしれない、存在すら忘れられているかもしれない、そんな何の根拠もない不安がこみあげて、視聴期間ぎりぎりまで録画されたものをチェックできなかった。
そしてぎりぎりでチェックして、自分の質問が丁寧に取り上げられていることを確認出来たとき、心からホッとした。

もし質問を直接してすぐに回答をもらえていたら、きっとこんな不安は湧いてこなかった。今回質問と回答にタイムラグがあることで、わけのわからない不安が襲ってきていた。

今回は明らかに自分の中だけで、不安の嵐が吹き荒れていた。外の世界は快晴だというのに。だからさすがに自然に、自分の内側を探ることが出来た。
なぜそんなに不安になった?

そういえば、私はコミュニケーションを取るとき、お互いのやり取りの間に時間があるほど、不安になるな、と思った。リプライがくるまでの間、相手の反応が気になり過ぎるのだ。

育った家では、自分の中にふと湧いた疑問や思いを口にした経験はかなり少ない。ようやく口にした言葉を丁寧に取り上げてもらった記憶もない。
いつも大人の方が一方的に言葉を浴びせてきた。私が間違ったタイミングでつい一言何か言えば、そのあとは大変なことになった。あとの反応を考えると、何も言わない。それが自分を守る策になり癖になった。こういう体験の積み重ねは、私のコミュニケーションに対する過度な警戒心に影響しているだろうと思う。

現場では、私がリードしてコミュニケーションを取る立場になることも少なくない。リードするなんて、本当は苦手。

自分の思いが全然口から出てこない大人や子供はたくさんいる。ようやく自分のペースで言葉で何か発してくれると、実は涙が出るほどうれしい(泣かないけど)。よく言ってくれましたね、言えたね、という声かけが自然と出る。自分が誰かにそうして欲しかったように。

こういう場に自分が支援者として時には勇気を出しながら関わって、関わりながら、自分の思いもどこか癒されてきたと思うと、支援している人たちの存在に感謝だ。

こうして支援者として活動しているうちに私なりに癒されるのかな、と何となく思っていたのかもしれない。
でも、今回こんなわけのわからない不安が出てくるところをみると、やっぱり私自身に不安が出てきたとき、それはそれでやり過ごすことなくきちんと受け止めなくては、と思う。

支援者という立場に甘んじて、自分にとって本当に必要な癒しを雑にしてきたような気もする。でもこうしてアウトプットしながら気づいたから、ここから足りなかった癒しを始めよう。
いつでもスタートは切れる。


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