〝気づき〟はギフト
気づきの前。そして後。
たかが気づき。されど気づき。
私にとって、気づきは日々のふとしたことから、ある日突然上から降りてくるような大きく深い気づきまで、どれも大切にしたいギフト。
気づきってそう簡単に得られるものでもないと思う。
だってそれまで気づけていなかったものに気づくのだ。
〝なかった〟が〝あった〟に変わるのだ。
気づく前。気づいた後。
知ったらもはや知らなかったことには出来ない。
そこには一度渡ったら戻れないほど大きな隔たりがあると思う。
気づきは小さい。
気づきのほとんどは大きくはない。重さや深さはあっても見逃してしまう。
大きいのなら、それを人は発見!というかもしれない。
これら小さな気づきを、自分の手のひらで受け止められるか?
その環境があるか?
わずかな気づきを受け止めるには、ほんの少しでも自分の中にスキマが必要。
スキマがあれば、自分で深呼吸が出来る。
やるべきことでギッチギチの毎日に風が通り抜ける。
力が抜ける。
気づきがどこからともなくやってくるとき。
それはスキマあるひとときだ。
ふとした違和感をキャッチする。
それはスキマがあって、自分の手のひらを差し出すゆとりがあるとき。
それほどに気づきは小さい。
気づきが育つところ
気づきのある空間。
平穏な、温かみある空間であればあるほど、気づきは手にしやすいと思う。
ひっそりと、自分を押し殺して、なんとか僅かな呼吸を保って生活してきた私にとって、気づきを得るには、相応の空間や時間が必要だった。
気づきはその先の自分の成長につながる。
私は成長のタネでもある気づきを得る手前で、ずいぶん足踏みすることとなってしまった。
でもそんな状況だった自分に気づいた今、気づきの大切さは身に染みてよく理解できる。
気づきは自分理解と成長の種。
だからずっと成長したい私にはギフトなのだ。
たくさん気づいて、気づきは全てキャッチする。
これからの自分。
いつもそんな穏やかな自分でいたい。
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