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♯20 当たり前を問い直す

 20回目のnote投稿となりました、天治郎です。本稿の要旨は、以下の通りです。

「当たり前を問い直す」ということは、「子どもの立場に立って自らの教育観を見つめ直す」ことと同義ではないでしょうか。

(1)めがね旦那さんのお考えから

 Twitterをされている方は、「めがね旦那」という小学校の先生を御存知の方も多いでしょう。育休中に始めたTwitterで自身の教育に対する考え方を発信したところ、半年弱でフォロワーが2万人を超えたそうです。現在はフォロワー4.3万人と、小学校教員ではトップクラスです。私はめがね旦那の著書である「その指導は、しない」、「居心地の悪くないクラスづくり」、「クラスに『叱る』は必要ない!」を読みました。いろいろと考えさせられました。

 以前教育新聞でも、「その指導は、しない 居心地の良い教室づくりに向けて」という連載をされていました。連載の第1回で、「めがね旦那」は、

学校にはさまざまな「当たり前」が存在します。「授業の始まりにはあいさつをしなければならない」「授業中に水分を取ってはならない」「話すことがあるときは手を上げる」「悪いことをしたら先生に怒鳴られても仕方ない」…。それぞれの教育的意義を探せばきっと見つかるのでしょう。教育とは多義的であり、それが教育の魅力でもあります。しかし、こうした「学校の当たり前」によって子どもが苦しめられてもいいのでしょうか。子どもには選択肢がありません。学校に通わないということさえ選択できずに、毎日苦悩しながらギリギリの気持ちで学校へ通っている子どもだっています。

めがね旦那(2021).その指導は、しない 居心地の良い教室づくりに向けて.教育新聞.

と述べています。考えさせられませんか?

 連載の中で、

・授業開始と終了のあいさつ     ・叱ると怒鳴る
・休み時間は誰のもの?       ・分からないから教えてください
・学習を嫌いにさせないことが大切  ・どうして勉強するの?
・教育目標             ・家庭環境への配慮
・ポジティブリストをやめよう

めがね旦那(2021).その指導は、しない 居心地の良い教室づくりに向けて.教育新聞.

の9つのテーマを取り上げています。何か気になったテーマはあったでしょうか?
 近年私が特に「問い直し」をしているテーマは、「 宿題は、何のためにあるの?一人ひとりの子どもに寄り添うその在り方は?」、 「授業中は座っていなきゃいけないの?」、「本当の『問題解決』とは?」です。

(2)本当の「問題解決」とは?

 今回は、上述した私の問い直しの3つ目について私見を述べます。
 私は、いつも「問題解決型」の授業に違和感を覚えています。そもそも「問題解決学習」とは、20世紀初期のアメリカの新教育活動の中で、デューイなどが提唱した児童中心主義的な学習理論から生まれたものです。大学時代の講義で学んだ記憶がありますので、先生方も一度はデューイの名前を聞いたことがあるでしょう。しかしながら、いつのまにかその「児童中心主義」の理念は失われ、「〇〇スタンダード」等と名前が付けられ、授業の型として全国の学校で根付いています。若い教員が増える中で授業の規範となる一方で、形式を守ることが先行し目的を見失っている現状も指摘されています。 

 算数を例に考えてみます。算数で「問題解決型の授業」といえば、「問題→課題→見通し→自力解決→練り上げ→まとめ→適用問題」が一般的でしょうか。型があれば、授業者は楽です。しかしながら、この型がいつも子どもの問いや思考に沿っているとは思えないのです。そして、個別最適な学びと協働的な学びが謳われている今、そもそも一斉授業自体を、またその在り方を問い直さなければいけません。

 具体的に見ていきます。「①今日のめあては何かな?(これに関して言えば、問いかけていること自体は素晴らしいと思います。)」、「②見通しをもとう。どんな考えが使えるかな?」、「③今は、自力解決の時間だよ。」等と、授業中よく教師は投げかけます。 

(1)今日のめあては何かな?

 ①で言えば、問題を把握するといつもめあて(課題)が生まれるのでしょうか。また、本時のめあて(課題)は本当に1つなのでしょうか。子どもの問いは様々であり、連続することもあります。そして、自分で考えている時に生まれる問いもありますし、練り上げている時に生まれる問いもあります。それらをいかに価値付け、学級の問いにしていくかは、教師の技量の問題です。もちろんすべての問いを取り上げることは不可能ですが、棚上げしたり、自分で発展として考えてみるよう促したりすることはできます。大切なことは、「子ども自身が見いだした問いであること」と「自分たちの問いを解決しているんだという気持ち」です。 これは、個別最適な学びにも繋がっていく話です。

(2)見通しをもとう。どんな考えが使えるかな?

 ②で言えば、みんなで見通しを共有する必要ってあるのでしょうか。子どもは一人ひとり違いますから、早く解きたい子もいれば、誰かの意見を聞いてみたい子もいます。また、いわゆる「わかっている子」の考えを自分でじっくり考える前に聞いて、「『今は』わかっていない子」が理解できるのでしょうか。私は無理だと考えています。形式的に見通しをもたせるのではなく、「指導の個別化」を図ることが大切だと思います。 

(3)今は自力解決の時間だよ。

 ③で言えば、自力解決と呼ばれる時間は基本的に1授業に1回です。しかしながら、授業の内容によっては、2回、3回あるはずです。というよりも、いつでも「自分で考え、表現する時間」と考えるとよいのではないでしょうか。これは、「振り返り」についても同じことが言えます。
 また、自力解決の後に「ペア学習」を取り入れられることが多いですが、子どもたちは本当にペアで学習したいのでしょうか。他者と対話したいという気持ちはあると思いますが、それがいつも自力解決の後なのかということです。「自分で考える→誰かと話し合う→自分で考える」という子がいてもいいし、「自分で考える→自分で考える→誰かと話し合う」という子や、「誰かと話し合う→自分で考える→誰かと話し合う」という子もいてもいいはずです。なぜなら、子どもの考え、表現する力は同じではないからです。形式的に自力解決やペア学習を取り入れるのでなく、子どもの思い(ここでは「考えたい、話したい」という気持ち)に応じて、自分自身で選択できるように授業をコーディネートすることが大切だと思います。 

(3)おわりに

 私は、「型」自体を否定しているわけではありません。アレンジはしていますが、私の授業も「問題解決学習」が基本です。そして、方法知としていえば、子どもたちには「問題解決『型』学習」ができるようになってほしいです。ここで主張したいのは、「子どもの問いや思考に応じて『型』を崩していく必要がある」ということです。

 そして、よく「若い先生は、『基本の型』で授業をできるようになろう。」とおっしゃる先生がいます。もちろんこれは1つの正解でしょうし、否定はしません。私も実際言われていましたし、そう思っていた時期もあります。しかしながら、「その基本の型が今の時代に合わないとしたら?」と常に問い続ける必要があると強く思うのです。授業を創る上で大切なことは、「子どもの問いや思考、そして気持ちに寄り添っているか」です。 
 「当たり前を問い直す」ということは、「子どもの立場に立って自らの教育観を見つめ直す」ことと同義ではないでしょうか。 以

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。御意見等お待ちしております。

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