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ニューヨークから新卒で海士町へ。選択のストレスから自由になった「自分らしさ」に向き合う暮らし方

連載:わたしの離島Life

日本海の隠岐諸島に位置する島、海士町。
人口約2300人のこの離島には、なにかの引力がはたらいているかのように、
多様なバックグラウンドを持つ人々が引き寄せられ、生活をしています。

離島の営みを紹介する連載「わたしの離島Life」。第六弾は、新卒で海士町にやってきたカラフルな髪色が目印の奈菜さん。北海道で生まれ育ち、ニューヨーク州の大学を経て海士町へたどり着いた彼女の人生と離島Lifeについて詳しくお伺いしました。

Profile
佐藤 奈菜:北海道札幌市出身。札幌市の高校を卒業後、アメリカのニューヨーク州立大学にてビジネスエコノミクスを専攻。4年間の正規留学を終え、そのままアメリカでB&Bや有名アウトドアブランド企業でインターンを経験した後、帰国し海士町へ移住。現在はEntôにてフロントスタッフに加え、SNS運用や新企画運営など活躍中。

Entôロビーにて仕事をする奈菜さん

北海道からホテルの社長を目指してニューヨークへ

ーまず学生時代のことを教えてください。

学生時代は地元の北海道にある高校に行き、そこからアメリカのニューヨーク州立大学に行きました。日本ではあまり見かけないホテル経営が学べる学部がアメリカにはありました。そこで、高校生の時にアメリカに4年間正規留学をすることを決めました。

ニューヨークシティにて

ーというと、大学受験の時からホテルに興味があったのですか?

はい、さかのぼると小学生の時くらいからホテルの社長になりたい、と思っていました。もともと家族でキャンプにいくことや、旅館に泊まること、温泉街に行くことなどが多く、観光や旅行が好きだったんです。ホテルの異世界の雰囲気、その土地にしかない街並みや美味しいものを食べられることなどに非日常感を感じて惹かれました。その体験から、「ホテルを創りたい、そしたら毎日楽しくなりそう」という感覚でホテルの社長になりたいと思っていました。よく幼少期のころにある「お花屋さんになりたい」とか「パティシェさんになりたい」といった夢を追いかけてきたイメージです。

ーその夢をずっと追いかけて来たのですね。そこから、就職活動はどのような選択をされてきたのですか?

いえ、実はずっと追いかけてきたわけではないんです。大学2年生の時の夏休みに一時帰国した際に、ホテルの現場でアルバイトをしてみて、そこで現場の厳しさを初めて知りました。一緒に働く人々にとても恵まれ、ゲスト対応において大事な、基本的な部分を多く学ばせてもらったんですが、繁忙期だったこともあり、朝から夜まで体力仕事かつルーティンワークで辛くなってしまいました。この経験でホテルが本当にやりたいのかわからなくなってしまったんです。

ーそうなんですね、そこから卒業まではどのように過ごされたのですか?

はい、今思うと、数ヶ月のアルバイト経験だけで将来に対して消極的になるのは甘かったなと思いますが、アメリカ留学はもともと「ホテルの社長になりたい」という想いで挑戦したことだったので、その経験があったことによって留学の大きな目的を失い、また目指していたコーネル大学への編入も叶わず、自分は何をしたくて何のためにアメリカにいるのかが分からなくなってしまいました。しかし、今までの努力を簡単には捨てることができず、卒業するためにひたすら成績を追いかけていました

留学先大学のクロスカントリー部に所属していた奈菜さん

ーその後はアメリカで就職活動をしていたのですか?

はい。卒業した年は2020年でコロナウイルスが大流行した時期だったので、日本に帰って就活できるような状況ではありませんでした。アメリカに残ろうと思い、OPTという制度を利用してインターンをしました。OPTとは「Optional Practical Training」の略で、留学生がアメリカの大学を卒業した後、最大1~3年間はアメリカに滞在して、専攻と同じ分野の仕事についてもよいという制度です。それを利用してB&Bの施設や有名なアウトドアブランドの企業でインターンをさせていただきましたが、自分に合う場所を見つけることはできませんでした。

アメリカでOPTをしたあとに正式に就職をするとなると、学生ビザから就労ビザに切り替える必要があります。その就労ビザを取得するには就職先の会社が何十万と払ってスポンサーのような立ち位置にならなければいけないのですが、そこまで大規模で資金のある企業で就職したい場所がなく、アメリカにどうしても残りたいという想いもなかったので日本に帰ってきました

大学卒業時の奈菜さん

ーアメリカで就職する流れを初めて知りました・・・。  日本帰国後はそこからどのように過ごして海士町に行きついたのでしょうか?

日本に帰国後、3か月ほどは地元の北海道で過ごしました。アメリカでの大学生活は、ホテルの社長を目指していたのになにもやりたいことがなくなった、という劣等感で終わったので特に何も考えずに過ごしていました。
そのタイミングで同じ札幌の高校出身でニューヨークにいたころに出会った人からメールがきました。その方に今の株海士の社長である青山さんを紹介してもらったんです。ニューヨークにいたころに、同じ高校の同窓生が集う会がニューヨークの現地にあって、そこで知り合った方です。札幌に帰ってきてからのんびり過ごしていた私に「何がしたいの?」という問いをしてくださり、しいて言うなら観光業に携わりたい、と答えました。そこで、日本海にある海士町という場所でホテルをやっている青山さんを紹介していただきました。青山さんも私と同じ高校の出身だったんです。

海士町、菱浦港から見る朝日

海士町の第一印象は「嘘がつけない場所」

ーそこで青山さんと知り合ったんですね。そこからEntôで働くことを決めたのですか?

いえ、すぐには決まりませんでした。一度オンラインで話して、その一ヶ月後に海士町に遊びに行くことになりました。海士町(あまちょう)を当時「かいしちょう」と呼んでいたくらいなにも知らなかったのですが、海士町に訪れると、島民の皆さんに島中を案内していただきました。

その中で印象に残っているのが「嘘がつけないな」と思ったことです。この小さなコミュニティで暮らす島の皆さんが飾ることなく等身大で話す様子や、透き通るほどに美しい海を前にして、不思議と自分が認めたくない自分の嫌なところや、後ろめたい部分がすごく浮き彫りになったような感覚がありました。

今思うと、海士町を訪れてちょっとしたカルチャーショックを通して、自分に向き合い素直になる段階を踏んでいたのかなと思います。

感覚なので、うまく言い表せないのですが、「嘘がつけない空間」で自分をさらけ出す経験ができそうな予感がしました。

隠岐島前高校の生徒さんたちと稲刈りのお手伝い

ーそうなんですね、ありのままを語ってくださりありがとうございます。  その後、海士町への移住を決めたきっかけなどはありましたか?

実は一か月くらい悩んでも決められなかったんです。過去に、ホテルがやりたくてアメリカにいったのに帰ってきてしまった自分が嫌になった経験があるので、すこし決断をするのが怖かったのかもしれません。
ただ、ひとつ、海士町では「それでもいいよ」「やってみようよ」って言ってくれるような雰囲気があるように思いました。自分がやりたかったけど踏み込めなかった挑戦に引き込んでくれたような気がしました。海士町の懐の深さに救われたような気がして、もう一度挑戦してみよう、と思ってからやっと移住を決意しました

ー自分を許容してくれる雰囲気がある部分、すごく共感します。流刑地だったことがあったり、人の循環が常に絶えない島であったりするので、ウェルカム精神が溢れているのかもしれませんね。

そう思います。「どうしたいの?」という本音の部分に迫る問いによって、自分の想いを表に出す機会がたくさんあるとともに、夢がわからなくて辛くて迷っている自分も受け入れてもらえるような気がしました。弱い部分はあまり見せたくはないけど、狭いコミュニティだからこそ弱さを見せられることもあるんだなと思いました。

アメリカでも田舎に住んでいたのですが、そこでは逆に人にあまり干渉しないカルチャーなので、知り合ってからもう一段階踏み込んだ深い関係性になるのは難しかったように思います。

Entôでいつも一緒に働いている仲間たちと虹をバックに🌈

「ないものはない」離島で変わった価値観

ー実際に海士町に移住してみてどうですか?受け入れる文化以外にも感じることはありますか?

そうですね。「ないものはない」というキャッチコピーの通り、都会にある選択肢や目に入る情報量は少ないなと感じます。その一方で、ここでは迷う要素がない分ほんとうに自分がやりたいことってなんだろう?と自分の本音に向き合うことが出来ていると思います

都会と距離がある分、「あの人があのカフェに行っていたから今週私も行ってみよう!」といった、テレビや雑誌、SNSなどのメディアでみた場所へ気軽に赴いたり、実際に体験することが簡単にはできません。ここに来てから、今までのそういった選択は他人に対しての「羨ましい」という感情に引っ張られていることがほとんどなのかも、と思うようになりました。キャリアに対しての考えも周りの人のことをいいな、と思っているだけであって見せかけの感情だと思うようになったんです。

Entô横で【火鉢カフェ】を営む奈菜さん

自分が本当にしたいことはなんだろう?自分が本当に食べたいものはなんだろう?自分が本当に住みたい場所はどこだろう?こういった自分の本音に迫る問いをすることの大切さに気がつけるようになりました。選択をすることのストレスからも自由になったと思います。

島民の方からお借りした『火鉢』の周りに多くの仲間が来て、
気が付いたら真っ暗になっているくらいいろいろな話をしていました。

ゲストと一緒に海士町の魅力を発掘する仕事

ー価値観や考え方も移住とともに変わる気がしますね。海士町ではどのように過ごされているんですか?

お昼まで寝ていることもありますし、田んぼの手伝いや山菜取りというようにアクティブに島の人たちと過ごすこともあります。仕事をしちゃうこともあります。この間は、Entô Diningの徳岡さんと一緒に崎地方でみかんと梅干しを栽培されている方のところを尋ねて、その梅干しの栽培を見学させてもらいました。島の商店で梅サイダーとして売られている梅ですね。ひとりの何もしない時間も作れるし、島の生産に関わることもできる休日を過ごすことができています。

ー「仕事をしちゃう」というのはどういうときなんでしょうか?

そうですね。Entôでフロントに立っているとよく島にお越しになったお客様に観光案内をするのですが、その引き出しを増やしたくて仕事に繋がるようなお出かけをよくします。また、PR用の写真撮影のために外に出ることもあります。ただ、楽しくて出かけているので、仕事ではないかもしれません(笑)

ーゲストに紹介できるように自分が楽しむ、ということですね。

はい。ですが、最近働く中でその考え方も変わってきたように思います。
先日ある御一行の視察に同行するという仕事があったのですが、その中で海士町のよさを十分に伝えられていないな、と思ってしまったんです。ゲストになにか提供しないと、そのコンテンツの引き出しを増やさないと、と考えていました。しかし、その気持ちを抱いていた時に社長の青山さんに「その模索している状態こそが光になるんじゃない?」という言葉をいただきました。私はこれまで未完で物をお渡しするということは一流ではない、と考えていました。しかしその言葉を受けて、海士町のよさを抜け漏れなく100点満点の状態でゲストにお渡しするのではなく、一緒にゲストが求めているものを探して一緒に見つけていく、その過程を楽しむ、それこそが海士町の観光の価値なのではないかと考え直すようになりました

透き通る海でSAPを楽しむ奈菜さん

海士町に移住しEntoで働き始めてから既に1年が経ちますが、今でも来て間もない時と同じようなわくわくした気持ちで日々を過ごしています。ありきたりな言葉ですが、楽しいです。かつてアルバイトでホテルの仕事に対してネガティブな印象を抱いていましたが、今は1スタッフというより1人の人間「佐藤奈菜」として働いているような感覚があり、心地の良さや魅力を感じています。

ー奈菜さんの考えている新しい観光では、一度きりのそのゲストに沿った観光が楽しめそうですね。島ならではの偶発性が面白そうだと感じました。最後に、離島で働くことに興味を持ってくださっているひとたちになにかアドバイスがあればお願いします。

私は「わからなくなったら動く」というのを大事にしています。自分自身考え過ぎてしまうことが多いのですが、人生1度目だから正解がわかるわけでもないし、選ばないわけにもいかない、と思います。そんな中で、迷いがあるという状態は「今の自分のをなにか変えたい」と思っている証だと考えています。

私自身も決めることから逃げたかったし、選択肢がたくさんある状態からも逃げたかった時期があります。自分はなにもできない、という無力感が強かったので、選び取った先に結果を出す自信がなかったのです。しかし、なにもない自分でも大丈夫、ここなら受け入れてくれる、という可能性や希望を感じたので移住を決めることができました。
また、タイミングも重要だと思っています。私は、あの時決断していなければ一生ここに来ることはなかったと思います。人生のなかで今は離島に暮らすフェーズなんだな、と思い今しか選べない選択肢を選びました。まずは一度行動してみることをおすすめします。

ー奈菜さん、貴重なお話ありがとうございました。これからも、ゲストと一緒に光を見つける海士町ライフをぜひ楽しんでいってください!

海士町の港での夕日と奈菜さん


Entôでは、奈菜さんのような個性あふれる素敵なメンバーが日々離島暮らしを楽しんでいます。 下記リンクから、一度お気軽に面談することも可能です。
noteでは毎月の特集も連載していますのでぜひ一度、仕事の様子を覗いてみてください。

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