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【短編小説】小さな黒い妖精

 僕は時々、風に溺れる。閑寂な川の表皮の皺、あのびらびらに溺れる。燃え立つ原色の草木、あの肺胞じみた緑に溺れる。自転車のサドル、あの不安定な矢印に溺れる。
 猫が炉端でずんぐりと丸くなる仕草に、鉄橋の真下に響く自動車のタップダンスに溺れる。溺れる度、気持ちよくなったり、悲しくなったり、わけがわからなくなったりしている。春がぐるぐると回る日、寂しい土手の上を行く。砂利道に心が縺れる。尻餅をつく地面はない。いつも幽霊のように世間からほんの少しだけ浮いているから。
 菜の花の原色が目に痛い。不法廃棄物の一群が優しい眼差しで青い空を眺めている。鳥がびっと飛び、春を腐らせまいと健気に回す。風がびゅうと吹き、忘れられた田舎を揺らす。風が、神棚の横の農協のキャップを、倉庫の片隅に錆び付いた鍬の柄を揺らす。僕はそういうものに溺れる。ぐるぐるとなる。
 土手の斜面。ふわふわした草の上。僕はいつの間にか眠っていたらしい。僕は大魚の跳ねる音で目覚めた。小貝川だ。天上に太陽が道化のようにぶら下がっていた。草の上で目をぱちぱちさせるのは僕一人で、羽をちらちらさせるのが十数人の妖精だった。蝿と燕のハーフみたいな美しい飛び方をする小さな黒い妖精。体長は二センチくらいで、ブッキッシュな燕尾服を着ていた。服と肌の境目が曖昧で、ぎょろぎょろとした目玉もまた真っ黒だった。忙しなく動く羽のメロディーが、夢の一日の清廉な朝の囁きと似ていた。針金みたいな足を上品に揃えて飛ぶ姿。なるほど、愛嬌がある。妖精たちはしきりに話し合っていた。高音とも低音ともつかない奇妙な発声と、繋がりの曖昧なシラブルが気持ちよかった。話の内容は分からなかった。人間とは言葉が違うのだ。何人かが僕の気を引こうとして、袖の隙間から服の中に入り込み、身体中をくすぐった。中には腹に噛みつくのもいた。僕はそいつらを残らず外に追い出してから、「妖精アレルギーなんだ。発疹が出てしまうじゃないか」と冗談を言った。誰も笑わなかった。人間とは言葉が違うからだ。一瞬ののち、僕のことが余程気に入らなかったのか、妖精たちはみんな幽霊みたいに消えてしまった。
 僕は家に帰ろうと思った。「家に帰る」という一文が内包しているあまりにも多くの文学的妙趣は、詩人を一人過労死させるのに充分だ。だから僕はライトに、とてもライトに家に帰ろうと思った。余計なことは考えずに、ただ単純に。呼吸の浅い心と共に、いつもニコニコしているジャックパーセルと共に、硬い未舗装の小道を歩いた。蹴り飛ばされた小石の悲鳴と、地面にめり込まされた砂利の嗚咽が交互に聞こえた。
 その時だ。鳩尾に何かが当たった。傘に跳ね返る一粒の霰くらいの些末な何かが確かに当たった。目を落とすと、腹から何か出てくるのが見えた。消えたはずの小さな黒い妖精だった。すごい数。千人はいた。千人が一斉に鳩尾から噴き出した。あまりにも数が多いせいで、個が消滅して全体がモザイクみたいにみえた。その一群のほとんどは遠い空へと消えた。だが、一人が腹の中に残ってしまった。僕が驚いた拍子に腹に力を入れすぎたせいで外に出られなくなったのか、彼が意図的に留まることを選択したのかは分からなかった。僕は仕方なしに、そいつを腹に抱えて家へ帰った。
 玄関扉を開けた途端、身体中に違和感を覚えた。僕はその正体を暴くために、全身鏡の前で服を脱いだ。奇妙な浅黒い発疹が腹に浮かび上がっていた。妖精に嚼まれたせいだ。発疹はどんどん大きくなっていった。黒い三日月のような、疲れた目元の隈のような、弓なりの発疹はたちまちに全身を覆っていった。その発疹に共鳴するみたいにして、腹の中では小さな黒い妖精の羽音や、囁き声が始まった。得体の知れない不思議なことが僕の身体の中で起こっているのは明白だった。怖くはなかった。なぜだか、浮き浮きした気持ちが湧いていた。そのまま鏡を覗いていると、僕の白目は一瞬で真っ黒になった。爬虫類が瞼を閉じる時みたいに刹那の出来事だった。それから、両腕が腐った藁のように無音で千切れた。痛みはなかった。腕は最初から僕のものではなかったように、ただの肉片として床に転がった。これはきっとすぐに誰かに食べられてしまうだろうなと思った。案の定、腹から這い出して来た小さな黒い妖精が二本とも綺麗に食べてしまった。肉も骨もないような食べ方で、煙でも吸うようだった。味わうことを拒絶したみたいな食べ方から、右腕と左腕には味の違いはさほどないのだと僕は思った。僕はしばらくその場に佇んでいたが、なぜだかこれからビックイベントが発生することを確信していた。僕のちっぽけな人生なんかに起こるはずもなかった出来事が今まさに起ころうとしていた。僕は胸のあたりに熱を感じた。心臓の形が丸ごとわかるような強い動悸がした。
 ついに来た。ビックイベントだ。真っ黒な身体の発疹がさっきよりも力強く輝き、龍の鱗みたいに美しく、力強く波打ちはじめた。生来感じたことのない得体の知れない高揚感が僕を見つけた。嬉しかった。どうしようもなく嬉しかった。口角と目尻がぴったりくっつく程の笑いが込み上げて来た。夢のような喜びに今にも狂いそうだった。そんな様子を見て、小さな黒い妖精が話しかけて来た。僕は当然のように彼の言葉を理解した。
「気分はどうですか」
 僕は最高だと言う代わりに、全身をうねらせながら家を飛び出した。いつの間にか背中には、腕の代わりとしては大袈裟なくらいの大きな黒い羽が生えていた。僕は雲の繊維を千切りながら大空を飛んだ。閑寂だった川の表皮を掠めながら風のようにびゅうと飛んだ。川の表皮には見慣れたびらびらが表れた。あぁ、いつも眺めていたこの川の皺は僕が創っていたのだ。僕は田舎の畦道の寂しさを、生活の倦怠を掻き回すようにして飛んだ。原色の草木を撫でるように触れるとそれらは丸く膨らんだ。自転車のサドルの上をくるりと回って、炉端の猫の腹をくすぐり、鉄橋を小気味よく鳴らした。気持ちよかった。どうしようもなく気持ちよかった。
 僕の黒い鱗が連なる街灯のLEDに触れる度に、この尻尾が誰かの手遅れの悲しみに希望の摩擦を叩く度に、僕は少しずつ小さくなった。夢から見捨てられた青年の、理想から殴られた少女の、美しい涙を拭う度に、僕は少しずつ小さくなった。気づくと、体長は二センチくらいで、ブッキッシュな燕尾服を着ていた。それを知ったのは目の前の青年のうらぶれた瞳のおかげだった。そこに僕が映ったのだ。彼は今死のうとしていた。寂しい土手の上から川面に映る悠久の静寂に夢を見ていた。彼は病気なのだ。僕は青年の病んだ鳩尾に飛び込んで、彼を助けようと躍起になった。どうしてそんなことをしたのか分からなかった。助けられるということだけが分かった。青年の腹の中に病の原因が丸く光った時、僕はその膨らんでいる光の玉にそっと触れてみた。その刹那、発光は大爆発を起こした。無数の小さな黒い妖精が、破裂した玉の中から弾けるようにして、遠い世界へと飛散するのが確認出来た。
 僕は青年の身体の中から出られなかった。それで良かった。青年は今も生きていて、時々僕に語りかける。その度にぼくは答える。川の表皮に文字を書いたり、草の色や匂いに想いを混ぜたり、自転車のサドルをあっちに向けたり、猫に号令をかけたりして。


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