黒森峰より愛をこめて(逸見エリカ生誕記念 06.03.2019) ⑨

第九章 TERMAE SVEBIAE

「『グリューワインとアイスバイン作戦』、だな」
「隊長の『マイスタージンガー作戦』も、是非聞いてみたいです」
「また今度な。それと、もう隊長じゃない」

ハラハラと舞う雪の中、凍ったN川を見渡せる露天風呂にグリューワインのカラフェを浮かべて、二人は湯に浸かって談笑している。
寒空の下なのにのぼせかけて火照った顔を上に向け、真っ黒な空と白い雪を見つめながら、エリカは幸せを感じていた。

くねくねとうねる坂道をずっと登ったところに、そのレストランはあった。目の前の城門からさらに登った山の頂きには城があるが、今日は訪れず、レストランでゆっくりすることにした。
「レストラン」と便宜上呼んだが、カフェレストランとか、カフェバーと言ったほうがしっくり来るかも知れない。中世風の家屋(16世紀に人文学者が住んでいたと、まほが教えてくれた)をベースに改築されていて、堅牢な石造りと漆喰が寒さを和らげ、暖かいろうそくの灯が心を落ち着かせる。

「いらっしゃい。大変だったみたいだね」

貸し切り状態の店のバーカウンターから、30前後の茶髪の女性が声をかける。
ヨアンナは店主の娘さんで、まほとは同じ講義を受けていて知り合ったらしい。ドイツでは働きながら大学に通ってキャリアアップに活かす人が多い。彼女も観光学と経営学を学び、父から受け継ぐことになるこの店を時代に合わせて変えていく一助にしたいそうだ。

日本に留学したこともあるらしい。アニメとビジュアルバンド好きが高じてのことだったらしいが、日本滞在中に訪れた温泉旅館のくつろぎ空間に惹かれ、観光学に興味を持ち、それと実家のカフェを結びつけることを考えたそうだ。

「というわけで、試験的に温泉もやってみてるんだ。二人が一番風呂だよ。
 暖まってる間に料理を作っておくから、ゆっくりして」

受け取ったコートをクローゼットにしまいながら、流暢な日本語で話を勧めるヨアンナ。
意外な展開だったのでエリカはまほと顔を見合せたが、まほは慣れているのか、ありがとうと軽く言うだけだった。

店はかなり広めだった。
通り沿いの木製の扉から入って右側にバーカウンターとビールサーバー。左側には地下に通じる扉があり、地下室の一部はワインケラー、一部は食料貯蔵庫、そして一番広い部屋はショースペースになっていて、音楽ライブや小演劇などの催しがほぼ毎週末行われているらしい。

店の奥に入っていくと、広間の中央部が大きな正方形にくぼんでおり、その四隅にそれぞれテーブル席がある。周縁の高い場所はウッドデッキになっていて、こちらも四隅にソファー席が置かれている。学生が集まるとソファーに陣取り、近くの棚に置いてあるカードゲームやボードゲームをしながら飲むことが多いらしい。またウッドデッキから中央の窪地には階段で下りることができる。窪地の真ん中でピアノかギターの伴奏でソロ・リサイタルをすることもあるようだ。
また、いい季節になると通りにテラス席を出したり、川側に突き出たベランダにテーブルを作ったりしているが、この季節は皆屋内に入ることが多い。

ヨアンナのいう「温泉」への入り口は、店の一番奥、広間の隅の扉の向こう、というより「下」にあった。扉を開けると石壁に円く囲まれた小さな螺旋階段があり、ひたすら下りていくと上の入り口と似た木の扉に行き当たり、開けると木で出来た広い空間に出る。恐らく、脱衣場なのだろう。
しかし靴を脱ぐスペースと、脱いだ衣服を置く棚、鏡と洗面台はあるが、男湯と女湯が分かれていないなど、日本の温泉とは随分違うようだった。

と、ここまで来てエリカは、隊長と一緒に裸で風呂に入ることになっている現状に気付く。
嬉しい気もしながら、何とも恥ずかしい。
黒森峰時代にも訓練や試合の後にシャワー室で出くわすことはあったが、同じブースに入ったりはしないわけで…

一方のまほは恥ずかしがる様子もなく、テキパキと脱いでいく。上でヨアンナに手渡されたタオルをエリカに分けながら雑談をする余裕もあるくらいだった。
そしてエリカの恥じらいなど意に介さず冷静なまほを見て、エリカはかえって落ち着きを取り戻した。

「そういえば先程話した私の祖先だが、200回目の敵撃破が風呂場だと聞いたな」
「常在戦場、というわけですね」
「ローマでの戦果と聞いている。武人のたしなみは、万国共通だな」
「ローマ人も風呂好きだったと聞きました」
「都市を作る度に、必ず風呂も作るくらいにな。
 この地方は帝政初期のリーメス・ゲルマニクス、ライン川とドナウ川というゲルマン人に対する二大防衛ラインを補完する『障壁』が敷かれた場所だ。本当に壁を作ったのではなく、砦を一定間隔に置き、連絡網として簡易な街道を敷設するようなものだったらしいが」
「ではここに駐屯したローマ軍が、風呂を作ったことも…」
「その遺跡を元にした、とヨアンナは言っていた。さて、入るか」

などと話しながら、まほに付いていくままにいつの間にか外に出ていた。

寒い。

風避けの木の塀はあるし、屋根が雪を防いではいるが、やはり寒い。
走るようにして、湯船に浸かる。
まほは無表情で悠然と歩き、エリカの隣に座る。

いい湯だった。
硫黄の匂いがあまりしない、透明なお湯で、身体が芯から暖まる。
浴槽は石造りで、サイコロ状に切り揃えられた石のブロックを使ってきれいな四角形に作られた感じを見ると、案外本当にローマ人の遺産かも知れないとエリカには思われた。中央にある、ギリシャ彫刻とおぼしき石像や、屋根を支えるアーチ状の支柱も、ローマらしさを醸し出していた。

「初めて入ったが、なかなかいいな。疲れが取れる」
「それは良かった。
 これも飲んでみて。気分が良くなると思うから」

いつの間にか降りてきていたヨアンナが、グリューワインを満たした木製のカラフェをまほに差し出して言う。
これを載せたお盆を湯船に浮かべて、飲めということらしい。そのお盆は、湯に浮かぶように舟形をしていた。きっとまほが話していた、川下りのゴンドラを模しているのだろう。

「なるほど、風流だな。ありがとう。
 ではエリカ、zum Wohl!」
「ツ、zum Wohl!」

促されるまま、木のグラスに注がれたグリューワインを口に含む。

旨い。

甘みとスパイスの絶妙なバランスと、フルーティーで爽やかな後味。
そして、寒空の下、温泉に浸かりなからワインをくゆらすこの風情。
まさに、極楽のようだった。

気持ちが良すぎてよほど弛んだ顔をしていたんだろう。からかうように、まほが言う。

「『グリューワインとアイスバイン作戦』、だな」

温泉の解放感のせいか、いつもは見せない満面の笑みでエリカは言う。

「隊長の『マイスタージンガー作戦』も、是非聞いてみたいです」

温泉に浸かり、グリューワインを差しつ差されつやりながら、二人は幸福を感じていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?