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Fate/stay night: Heaven's Feel

Fateシリーズを知ったのは本当に最近のことだ。
去年の年始にFGO(『Fate/Grand Order』)というスマホゲームをやり始めて、そこから他のシリーズにも興味を持ち出して、今ではすっかりハマっている。

思えば第一作『Fate/stay night』が発売された2004年の僕は主人公達と同じ高校生だったわけで、しかも当時から歴史や神話には興味があったから、自分と同世代の人間達が歴史・神話上の人物の「英霊」と共に聖杯を争う壮大なる物語群に、もっと早く出会っていてもよかった。

今はその遅れを取り戻すかのように漫画を買い漁ったり、好きなサーヴァント(BBちゃんと殺生院様)が登場する『Extra CCC』を今さらながらプレイしたり(そもそもPSP portableを探すところからだったけれど、優しい先輩から誕生日プレゼントとして譲ってもらった)、FGOでガチャを引いて殺生院様のお出ましをお待ちしたり(そう、殺生院キアラとはまだ契約していないのだ!)している。

もっと早く出会っていたら、それだけ早くネトゲ廃人になっていただろうが、その前にいくつかのコンテンツにハマった経験からか免疫がついていて、今のところは大事に至っていない。(重課金とか、徹夜プレイとか…)

こういう出会いのタイミングも、僕の「fate(定め)」なのだろう。

フロイトと「Fate」

特に好きなのは、というか本格的にハマるきっかけになったコンテンツなのだけれど、『Fate/stay night: Heaven's Feel』の劇場版である。
もともとコンピューターゲームだった例の第一作のストーリー分岐のひとつ、「桜ルート」のアニメ化で、3つあるストーリー分岐の最後にあたるだけに、非常に壮絶な物語だ。

劇場版は三部作で、この記事を執筆している2020年年始現在ではまだ第二部までしか公開していない。最後の第三部は、2020年3月28日公開だそうだ。

待ち遠しいけれど、春に咲き誇る「桜」を眺めながら、同じ名前のある少女の悲劇に思いを馳せるのも、彼女には似つかわしいはなむけなのかもしれない。

僕のFGOのカルデアではBBちゃん(間桐桜と所縁のあるサーヴァント)が毎日お転婆しちゃっているから、あんまりしんみりした気持ちにならないのだけれど…

このFateの物語について考える時、フロイト的な精神分析はもしかしたら不適切かもしれない。

フロイトが暗に前提としている近代的な「家」の概念、父と母と子を中心にした家族関係が、物語の舞台である冬木市では当たり前でないように見える。
踏み込んで言えば、「父」と「母」ではなく、「大きな兄」と「大きな姉」しかいないのだ。

「一族」「一門」のような前近代的血縁・地縁集団は未だに存在していて、それがこの物語に厚みを与えているけれども、それはフロイト的な「父」「母」の代替にはやはりならなくて、外面の行動を律する「掟」「しきたり」にはなり得ても、個人の内面において欲動を抑圧するような力を持ちうるのか…

それでも敢えて僕は言いたい。
この作品に漂うなんとも言えない「エロス」を言語化するのに、フロイトほど適切な切り口はない、と。

『Fate/stay night』はそもそも、成人向けコンピューターゲームとして発売された。
「エロゲ」、なのである。

しかしただのエロゲでしかなかったら、その役目を果たして消費されたら終わりで、人々の記憶になど残らなかったろう。
それが15年以上経った今でも根強いファンに支えられ、僕みたいな新しいファンさえ巻き込んでしまう魅力がある。

それはこの作品が持つ「エロス」とは、ただ「エロい」絵を開陳するような単純なものでなく、より文化的、象徴的な「エロス」の表象だったからではないだろうか。

現すのではなく、ほのめかすエロス。
僕の数年来の愛読書から引くと、

現実よりも想像のほうが猥褻であり、肉体よりも心理のほうがつねに猥褻です。
上野千鶴子『スカートの下の劇場』p130

ということになる。

そして肉体より「エロい」心理について語るのに、フロイト先生以上の大家はいないのだ。

鍵=「男性自身」?

フロイト的な切り口でいうなら、マスターとサーヴァント達の間で争われる「聖杯」自体からして「女性」の代替表象であり、その欠片を肉体に埋め込まれた桜は言ってみれば「女性の中の女性」とすら言えるかもしれないけれど、いろいろと深すぎるので『Heaven's Feel』劇場版第三部を観終わってからゆっくり考えたい。

『Heaven's Feel』の第一部、第二部を見て気になったのは、「鍵」、というアイテムの使われ方だ。

主人公衛宮士郎の家の鍵。
これをある日彼は、ヒロインの間桐桜に渡してしまう。

きっかけは士郎がバイト中の怪我が元で弓道部を辞めたことだった。
彼の弓道部の同級生慎二の妹だった桜は、怪我で家事が出来ないだろうという理由で士郎の家を訪ね、手伝いを申し出る。
士郎も最初は断るが、毎日根気よく通いつめる桜に負け、ついに彼女を家に迎える。

そして、桜に家の鍵を渡す。

「…はい、ありがとうございます 先輩
大切な人から物を貰ったのはこれで二度目です」
漫画タスクオーナ 原作TYPE-MOON
『Fate/stay night[Heaven's Feel]』⑥
#20 「6日目/beautiful(Ⅰ)」 p128

そう言って桜は、「満ち足りた笑顔」を浮かべた。

ちなみに上記台詞は連載中の漫画版から引用したけれど、漫画では聖杯戦争開始後に桜が「通い妻」を始めた頃を回想しているに対し、劇場版では時系列通り第一部の冒頭でこのエピソードが示されている。
「原作」のコンピューターゲームでどうなっているかはわからないけれど、劇場版では演出上の意図があって鍵の受け渡しを最初に示した可能性もある。

さて、この「鍵」なのだが、僕には二つの意味があると思う。

ひとつは、士郎が桜に心を開いた証。
いわば士郎の心の扉の鍵である。

衛宮士郎は、「正義の味方になりたい」と願うあまり、自分自身の正義に固執して、ひとりひとりの他者を見誤るところがあるように思われる。

「自分は人類を愛しているけれど、われながら自分に呆れている。それというのも、人類全体を愛するようになればなるほど、個々の人間、つまりひとりひとりの個人に対する愛情が薄れていくからだ。」
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(原卓也訳)
第一部第二編「場違いな会合」
四 信仰心の薄い貴婦人
新潮文庫 上巻 p136

これは有名な古典文学からの引用だけれど、士郎を見ているとまさにこんな感じがする。
「大文字の他者」ばかり見ていて個別の「小さな他者」の顔を見ていないような。
幼なじみの間桐慎二が士郎に対して「相手にしてもらえていない」的な疎外感を感じるのも、遠坂凛が士郎の生き方を「不自然」と評するのも、それが原因なのだろう。
良くも悪くも、自己完結し過ぎているのだ。

そんな士郎が初めて心を開いた「他者」、それが間桐桜だったのではないか。
鍵を渡すことは、それを表す「儀式」だったように思われる。

鍵を渡すことにはしかし、もうひとつ意味付けが可能だ。
「鍵」とは精神分析では、「男性自身」の象徴でもあるのだ。

劇場版第二部後半、アーチャーの左腕を移植され一命をとりとめるも弱りきり、寝床に入った士郎を桜が「夜這う」。
「エロ」というにはあまりに官能的で、情動的で、切ないシーン。

このシーンはしかし、物語の時間でいうと1年半前から、すでに予顕されていたのだ。
あの日士郎が桜に、「鍵=男性自身」を手渡した、その時から。

それは桜にとって、大好きな「先輩」を自分のものにする(例のシーンの前後関係からするととりわけ、実の姉凛に奪われる前に、ということだが)以上の意味がある。
「男性性」の支配、といおうか。

内気で大人しいように見えて、桜は意外にも「支配欲」や「管理欲」、「独占欲」が強いように思う。

士郎から教わった料理の腕で彼を越えたいと広言するだけではない。
聖杯戦争に出かけた士郎の留守中、鏡に映った桜の影がこう囁く。

「(士郎を)閉じ込めてしまえば、危ない目に合わないよね」

『Extra CCC』のBBを思わせるような、恐ろしい台詞である。
余談だが、BBが持つ教鞭も、男性自身の代替表象で、FGOにBBが出てきたイベントクエストのコミカライズ(『Fate/Grand Order -Epic of Remnant- 亜種特異点EX 深海電脳楽土 SE.RA.PH』)でも、教鞭を意味深に「しごく」シーン(第一巻p35)がある。


さて、例の夜這いのシーンは、「閉じ込めてしまえばいい」という独白の後に来る。

その交わりの中、桜は最初「騎乗位」を取っていたようだ。
女が男の上になり、思う様乱れるポジション。
まさに彼女のサーヴァント「ライダー」がペガサスに跨がり荒れ狂うように、桜は士郎と共に恍惚し、絶頂する。

…少し深読みし過ぎだろうか。

ちなみにこのような性的なインプリケーションを邪推できるアイテムは他にもある。

例えば、セイバー(士郎のサーヴァント)の持つ聖剣エクスカリバーと、士郎の体に埋め込まれたその鞘だ。
剣のほうは分かりやすい。男性自身だ。
では鞘のほうはどうだろう。

「剣=男性自身」を納めるという意味では、「女性自身」の象徴といえる。
しかし鞘とは、剣を中に納めながら、中の剣を隠すどころか、かえってその存在を誇示するような機能もある。

性器を最小限の容れもの、だが同時に隠してあらわすもの。性器を覆うことには、いつもこの両極の相反する志向が潜在しているように見える。
上野千鶴子『スカートの下の劇場』p10
隠して誇示するー現にあるリアルなものをフェイク(模造)なもので置き換え、置き換えることによってかえってそれを象徴して誇示するーという機能
同掲書 p35

これは下着(とくにパプアニューギニアの先住民のペニスケース)を念頭に置いた考察だけれども、剣が「男性自身」の象徴ならば、鞘には上記のような機能もあるのではないか。

つまり男性自身を納めるという意味では「女性自身」的意味を持つ一方、男性自身の存在を隠しながら誇示するという意味では「本物以上に本物らしい」疑似ペニスであるのが、「鞘」ではないだろうか。

これは士郎が持つ家庭的(=母性的)な性格と、切嗣からの「借り物」「紛い物」である夢(=男性性)という、士郎の持つ特性に符合する、というのは強引すぎるかもしれない。

だが「鞘を与えられた」という運命を受け入れた上で切嗣の遺志を継ぎ、聖杯を再び破壊するのが「Fate(定め)」ルートだし、空っぽの鞘が「中身」を求め、ついには「紛い物」でも自分自身で剣製してしまうのが「Unlimited Blade Works」なのだ、というのは分かりやすい気がする。

図式化すると、「Fate」は運命を受け入れることで、「UBW」は運命に抗うこと、というような。

しかし「Heaven's Feel」は、桜ルートは事情が違う。

聖剣の鞘は大火事によって瀕死状態だった士郎を助けるため、切嗣によって埋められたものだ。
士郎の意志に関係ないという意味で、与えられた「定め」だった。

しかし「鍵」を桜に渡したことは、「定め(Fate)」とは関係が無い。
士郎は自分の意志で、桜に「鍵=男性自身」を委ねたのだった。

そして士郎が向き合うことになるのは、「聖杯」になるという桜の「定め(Fate)」になる。

そのように定められた桜を、「正義」の為に討つのか。
「愛のままにわがままに」傷つけない道を選ぶのか。

すべては士郎の、自分自身の意志にかかっている。

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