多様な社会を

とある小学校の話だ。
その小学校の学区のエリアはほとんど、分譲の一軒家が並んでいる。
年収も乗っている車も週末の予定や旅行の行き先なども、なんとなく近い。

その地域にあるサッカーの少年団のチームは、日本有数の強豪チーム。全国大会にもよく出場している。

マンモスチームで、AからGまでランク付けされているらしい。

そのランク付けが、学校の中にまで持ち込まれ、
あの子はAだからすごいね、あの子はFだからカスだね、といった具合だそうだ。

休み時間に、上のほうにいる子が下のほうの子に校庭に出るなと言ったり、というようなことがよく行われているとのこと。

その学校の男の子は、ほとんどがその少年サッカーチームに入っているということだ。

また別の話。

ある子が新大久保にある保育園にいた。そのクラスには、18人のうち両親が日本人なのは4人しかいない。あとはみんな、両親ともにまたは夫婦どちらかが中国、韓国、ベトナム、フィリピン、タイ、ネパール、バングラデシュ、ガーナ、フランスと多国籍だ。

その子が引越をした。
引越先の園には、日本人の家庭しかいなかった。

転園したばかりのある日、ある女の子の肌の色が黒いと別の子から言われ、その子は、泣いていた。

その転園してきたばかりの子はとても驚いて、黒くもなんともないと話していた。

この2つの例から、何が言いたいかというと。
似た環境であればあるほど、違いが目についてしまうのだということを感じる。

同じ小学校、同じような車に乗り、同じような家に住み、同じサッカーチームに所属する。
いろんなことが近いからこそ、違いが目につく。
サッカーを例にとったけれど、塾に置き換え同じようなことが行われていることも最近聴いた。

その場所で、上にいることが家庭の中でも重要なポイントになり、親も、そこをとことん責める。もっと、もっとと。
落ちればダメだと言い、下のほうに行くことを許さない家庭もあるのだろう。こんなんじゃダメだ、あの子はすごい、といった具合に。

その上下の感覚は、もちろん、家庭を飛び出し子どもの社会の中でも行われる。

多様な場であれば、行われないこと。
実際、我が子の周囲でそのような話を聴いたことはない。
みんなが同じチームや塾に行く、という環境には、ない。
だから、いまの小学生怖い、とかそんなふうに飛躍してほしくはない。(実際、もっと恐ろしいことは、昔から山ほどある)

均一であるように見えるだけで、均一ではない。
見かけや年収が似ていたとして、全く異なる家庭だ。


これから先ますます多様なことが当たり前で、
一人ひとり違うこと、家族ごとに違うことが当然で、
比較するものでなく、
令和が誰にとっても生きやすい世の中であるように。

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