知らない場所で

仙台へひとりで行った。
特に見たいもの食べたいものがあった訳ではない。場所は別にどこでもよかった。

なんかずっと詰まっちゃってたんだよな
考えることが多く、そこからも逃げていて
物理的に今の状況から離れたかった。

仙台にしたのは何となく
東北へ行ったことがなかったこと、いがらしみきお氏の「誰でもないところからの眺め」という漫画を読んだこと、自然の力によって何が起きてどうなっていたのかということを知りたくなったからだ。
あとは知らない街のビジネスホテルで、ぼんやりと知らない街の光を眺めたかった。

ひとりで旅しているのは好きだ。ぼんやりと思いつくままに行動して、それが結局上手い感じに収まる。普段使わない部分の感覚を使って行動している感じがする。
ただそう思えるのはもしかすると、安定した基盤、土台、戻ってくる居場所があるからかもしれない。バランス。
これまでの生き方は、自分の意思で決めたようでいて、すべて必然的に引き寄せたような感じもある。その流れにただ乗っかっていたというか。

行きの新幹線の中で目的地の一つに決めた、震災跡地の仙台市立荒浜小学校。
自分より大きいもの。自然の力によって何が起こり、それによって人間がどうなったのかを見て確認してみたかった。
最寄り駅からバスを乗り継いで行く。傘をささなくても良いくらいの小雨が降っていた。段々と民家がなくなっていき、収穫された後のだだっ広い畑がよりいっそう閑散とした無機質な雰囲気を醸し出していた。寒かった。
バスから降りて、思わずキョロキョロと周りを見渡した。何もない。何も無くなった後で人が修復した平地だった。
ここにはもう家は建たない。仙台市が、今後さまざまな防災整備を行っても津波被害を避けられない地区に指定したため、この場所へは新築や増築などができなくなったという。前も、後ろも何もなく、これからも誰も住まない場所。

小学校の4階や屋上から太平洋を見た。初めて見る景色だった。平らになったこの場所に、かつて人の暮らしと住宅があったことを想像した。全部津波で流されてしまった。その海がすぐ近くに今も昔もある、ただそこにある。
最初親しさがなく、よそよそしい海だと思ったが、よく考えるとそれも少し違った。もともと海は人間に特別親しい訳でもなくただそこにある。普段見ている海もまた豹変したように見えることがあるのかもしれない。
宮城県の陸の形に沿ってグレーで果てしない海が広がっている。波が時折岩に当たって白く弾けていた。巨大なものを前にした時の畏れに近い感情。
松がまばらに立っていた。

来たバスで帰る。津波を少しでも食い止めるため堤防の役割をした盛り土のかさ上げ道路。意味があるのか分からない避難の丘。津波避難のピクトグラム。
自然を前にして出来ることは限られている。そのくらい自然は巨大で、人って何だろう、生活と存在することって謎だなと思う。民家もなく人もおらず、ただ広い土地とトラックや車が走る景色がなんとなく不安な気持ちになった。天気も相まって。


仙台のホテルへチェックインし、また外へ。
仙台は思っていたよりもずっと明るく賑やかな街だった。長く伸びた明るい商店街にはネオンが光り、人がたくさんいて、少し前とのギャップが凄い。

夜の仙台の街と同化する。
例に漏れず牛タンを食べたあと、ひとりで傘もささず行きの商店街とは違う夜道を歩く。そうするとだんだんと街と自分が馴染んでくる。その感覚がわかった。
初めて来た場所をひとりで歩いている不思議さ。
ここではどこにも所属していないという身軽さ。
誰も私のことを知らないという浮遊感。無名の獲得。
仙台は道路が8車線あったり、屋根がある商店街の道がものすごく長く続いていたりと、独特の構造をしていた。
ひかり。高い木々。イチョウが黄色く紅葉していた。


次の日は石巻のまた震災遺構小学校に行った。
昨日と打って変わってよく晴れていて、また違う感想を抱くことになった。
(多分つづく)

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