alμmi

存在は錯覚

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存在は錯覚

最近の記事

知らない景色を

2日目は石巻の門脇小学校を見に行く。 昨日に引き続き震災遺構小学校。 これは実際に口に出すことは出来ないが、「がんばろう!東北」とか「震災の記憶を忘れない」とかそういう気持ちは正直あまり無い。 なんとなく惹かれて見に行ってみたという言い方が一番近い。 ただ、これは1人でないと行けないなと思った。起きたことを目で見て、そこで自分がどんな感想を抱くのかが気になった。 30分ぐらい石巻駅から歩いた。 その道が坂になっていて、実際に避難したルートだったと後から知った。 町の高く頑丈

    • 知らない場所で

      仙台へひとりで行った。 特に見たいもの食べたいものがあった訳ではない。場所は別にどこでもよかった。 なんかずっと詰まっちゃってたんだよな 考えることが多く、そこからも逃げていて 物理的に今の状況から離れたかった。 仙台にしたのは何となく 東北へ行ったことがなかったこと、いがらしみきお氏の「誰でもないところからの眺め」という漫画を読んだこと、自然の力によって何が起きてどうなっていたのかということを知りたくなったからだ。 あとは知らない街のビジネスホテルで、ぼんやりと知らない

      • 身体の境界

        友人に誘われ、有楽町で行われている「わたしのからだは心になる?展」へ行った。 HPの記載はこう。 色々な作品が8点ほど展示されていて大ボリュームだったのだが、中でも花形槙さんのUber Existenceという展示が印象に残った。 Uber Existenceとは自分の体が「そこにいること」自体を提供する存在代行サービス。アプリで存在代行者(アクター)に登録すると、利用者(ユーザー)は自宅にいながら依頼したアクターに指示を出す。 たとえば「お祭りにいきたい」という指示が、

        • 意識の境界

          松濤美術館で「本歌取り、東下り」を見た。 杉本博司はシャーマンっぽい。 自然界への畏怖を抱きつつ、神聖なものに近しい。 春日大社で見た藤棚や、華厳の滝を前にしてそこに神が現れたと感じたという。 メソポタミアの呪術についての記述や人の手の跡まで分かるような土偶、研ぎ澄まされた数理模型。 そういった展示一つ一つに対して、わかる、人が高次の世界と接続するためのツール。と勝手に共感していた。 展示室内を何度もグルグルし、白井晟一が書いた書の奥深さや息遣いに感動したり、昔ワタリウム

        知らない景色を

          学生から大人に

          なってなんかいいことあったかな 5年経ったけど 今日全国から集められた昇格者研修で「学生から社会人になって変化したこと」というテーマについて班で話すことがあった。アイスブレイク的な意味合いで。 お金と時間を自由に使える、自己責任、世代の違う大人と話をして人生の知見が広がった とか みんな当たり障りのないことを言い、私も例にならってそう言ったけど どうだったっけな と思った 班の中で一人、お金はあるけど体力がなくなって、帰ったらすぐに寝てしまう。土日も外に出ず動画ばかり見てい

          学生から大人に

          寂しい人

          理由のない寂しさとどう向き合っていけばいいのだろう。 一人でいる時間がここ数ヶ月全く取れなかった。久しぶりに一人になってみて、雨の降る部屋の中で、この感覚を思い出した。 誰かを人として深く、感情が爆発するほど愛したことがあるのだろうか。やみくもに手当たり次第に愛情をただ容器に受けつづけるのではなく、誰か一人のことを、人として、深く好きになったという感情があったのだろうか。振り返ってみても思い出せない。 友人の話を聞いていると、「ずっと一緒にいたい」「良いことも嫌なことも共有し

          寂しい人

          規則正しい生活

          田舎に帰省していると、結婚して穏やかな家庭を築きたいと感じる。もう焦燥感に駆られたり色んな刺激や人との出会いを求めたり人からどう見られるかとか仕事で成長しないととか常に可愛くあらねばならないとか、そういうことを気にせずすっぽり家庭に収まりたいと思う。でも、私はぜったいにおとなしく収まることはできないとも思う。一瞬できたとしても、すぐに飽きて外の世界を求めたがるだろう。そんな予感がする。別にそんなこといつまでも続けたい訳ではないのに。

          規則正しい生活

          葉山

          早朝の海。わたしはこの世に生まれていて、大きな存在の中にいる。そしてその中では最後までわたしはわたしでしかない。ここで1人で生きていくのだろうと思った。いつまでも変わることはなく、ひとり、それは安心する 救われた様な気分になる 誰と関わっても私の中に勝手に介入されることはない。自然とともに生きていくこと 忘れずにいようと思った。 潮や草木の湿った匂い。生命力。 2日、違う気候と天気でみる内藤礼。雨と晴れ、海へと続く一本道、山口蓬春美術館、大きな窓と光。庭園、木に触れたときの感

          桜を前にするとぼんやりしてくる

          特に予定もないまま、会社を半休にした。 春は例年、特に理由はなくても精神的にも体力的にも不安定になる。 東洋医学的にいうと気の巡りがおかしくなるから、らしい。 何はともあれ、私は疲れていた。仕事中もうつろで、力が入らず、立つのも億劫だった。 慣れているのでまたかと思ったけど。 経験からこれはまずいと思って残業もそこそこ、早めに退社し行ってみたかったラーメン屋さんへ。ラーメンを食べ、人生初の追いご飯もしてエネルギーを投下してみた。 少しの間は元気になったが、朝起きてみたら元に

          桜を前にするとぼんやりしてくる

          グッバイ

          透明に近づくのは誕生と死のどちらだろうか 最後の部屋解約の立会いをした後、川 と思って引き返した。 川にはお世話になったから 地元も海があり、大学生の時は多摩川、社会人になってからは江戸川で 水辺の近くに住まないのは今回が初めてだな 身体を透明にするためによく川へと向かった 私が学生から抜けていくタイミングで 自然の中にいることは必要な儀式だった。 社会に嫌気がさしていた 私の本質的な部分 それは存在していることに対する悲しみ 心と肉体という物質の乖離 人格や意思がひとつに

          グッバイ

          新しい季節

          若い時辛い方がとか今は修行の時期だとか、そう言われているものがそれらしいので正しいとずっと思って生きてきた。 必ずしもそうではないと今は思う。 今自分がしあわせになることについて、もっと真剣に考えてもいいと思う。 昔そう思って生きてきたのは、ただ辛い現状への言い聞かせであり自分への慰めの部分もあったんだろうな、と今は思う。 そして現状と、これからを考えることを先延ばしにしていた。 コミュニケーションについて ある人が”自分も含め人はみんな利己的だと思っていて”と言っていて

          新しい季節

          なんでもない連鎖のなかで

          おじいちゃんが死んだ。元旦の次の日だった。 お葬式でお坊さんが念仏を唱えている最中、目の前の遺影と飾られた花を見ながら考えていた。 先祖代々が長く続けてきた遺伝子の列、その最後尾に私が今たまたまいるということ。 そしてこの流れは(おそらく)この先も続いていく。 そう考えるとこの連続する列自体は尊いものかもしれないが、私という存在は列を構成する一要因であるだけで、大きな視点から見れば単体ではそこまで意味を成さないんだろうなと思った。 こう書くと随分悲観的な感じがするが、決して

          なんでもない連鎖のなかで

          近くて遠い

          確かにそういった世界からは遠ざかっているように思う 変わっていくことを受け入れたい 引出しの鍵が落ちた瞬間に一瞬固まる 手の間をいつのまにかすり抜けていったもの 予想していなかった音が鳴る 3年も暮らしていたのに初めて知った川へ続く道 そこには誰もいなかったけど 草を踏み分けて前に誰かも同じように登っていた痕跡があった 会ったこともない人と同じ景色を見た 風を感じる程近くを電車が走る 植物の青々とした匂いが辺りに満ちる しゃがんでみると自分の背より高い 草むらの中から

          近くて遠い

          乗馬と裸の女の子

          ここ最近馬に惹かれていた。 きっかけは多分、銀座のエルメスギャラリーで行われていたシャルロットデュマの展示だと思う。 写真は多くを語らないのに、その場にある息遣いや空気、質感が伝わって来るものばかりだった。 「文明の黎明期より、人類はありとあらゆる物を運ぶのに馬を頼りにしてきた。馬は険しい峠をめぐり刈り集めた柴の束だけでなく、神々や精霊にかける願い事に至るまでを運び届けてくれた」 「また、馬は現世来世を渡りゆく私たちの旅の道連れでもあり、ずっと寄り添い見守ってくれる存在で

          乗馬と裸の女の子

          すべては去り行くものとして

          原美術館が閉館してしまう。 分かってはいたけれど、永遠にそこにあり続けるものなどは存在しなくて、その時がきたらどうしようもなくおしまいになる。 私のモラトリアムをこの場所に重ねていたように思う。そう思うと、偶然のように感じるけれど全ては最初からこうして決まっていたようにも感じる。 大学四年生の頃に初めて彼とこの場所へ行った。 よく晴れた平日の午後で、人も少なかった。リーキッドの展示を見た後に、手入れの行き届いたお庭を眺めながらテラス席で食事をした。最初に座った場所は大き

          すべては去り行くものとして

          冬の日の光

          明るく静かに澄んでつめたい光 朝、川を渡る時に見える車窓からの風景 眩く透明な光が水面を照らして私に真っ直ぐに差し込んでくる それはしばらく私をつかんで離すことはない お昼、休憩室で誰かが誰かの噂話をしていた それは遠い出来事のようだった 窓の外から入り込んできた冬のひかりを見ていた 懐かしい色をしていた まだ私はこうやって、抜け出して外の空気を感じることができるんだ いかないで ひかりよ それは遠い国の幻のようなんだ

          冬の日の光