すべては去り行くものとして

原美術館が閉館してしまう。 

分かってはいたけれど、永遠にそこにあり続けるものなどは存在しなくて、その時がきたらどうしようもなくおしまいになる。
私のモラトリアムをこの場所に重ねていたように思う。そう思うと、偶然のように感じるけれど全ては最初からこうして決まっていたようにも感じる。

大学四年生の頃に初めて彼とこの場所へ行った。
よく晴れた平日の午後で、人も少なかった。リーキッドの展示を見た後に、手入れの行き届いたお庭を眺めながらテラス席で食事をした。最初に座った場所は大きな木のしたで、隣にいた品の良さそうな老夫婦が「そこだと葉っぱが落ちてくるわよ。こっちの方がいいんじゃないかしら」と言ってくれて、席を移動した。
二人で何も話さず静かに食事をした。日は暖かく、鳥が平和にさえずりをしていた。空は青く、雲はゆっくりと流れ、ここが都会の真ん中だということを忘れてしまうくらいだった。
私たちは何も話をしなくてもそこにある自然や空気と一体になり、言葉ではない方法で会話をしていた。喋らなくても、通じ合っているという実感が確かにそこにはあった。二人の間にはいつも、言葉という形になる前のものが流れ、お互いの周波数を合わせてコミュニケーションをしていた。彼との関係は動物のようであり、兄弟のようであり、はぐれてしまった自分の片割れのようであった。

二人で出かけた場所はどこも現実離れしていた。ビルに潜入して見た夕日と運河、月が見える銀座の隠れ家、高くそびえる巨大な貨物、黙って歩いた夜の多摩川。なぜかいつも満月で、まるく大きく光る月が、その明るさとは対照的に黙って私たちを見ていた。私はなんども月と目が合って、全て見透かされている気がした。
私と彼は波長が似ているからこそ、ずっと一緒にいると違う人生を歩む彼が羨ましくなることは分かっていた。そしてその才能や純度の高い瞳に対してきっと私は耐えられない。


それから程なくして、私は就職して社会人となった。彼は学生の頃から働いていた場所でデザイナーになった。そして、連絡が途絶えた。
なぜだろう。何の脈絡もなかった。しかしそれはちょうど私の9月の誕生日だった。目標を聞かれ、私は冗談交じりでモラトリアムを卒業することかなと答えていた。おそらく、そのせいではあったように思う。
彼と過ごした日々は紛れもなく”ある一定”の時期にだけ与えられるもので、それはいろいろな偶然が重なってようやく現れるものだからだ。いつか終わりが来てずっと一緒にはいられないことは頭の隅では分かっていた。そしてそれはまた一つ歳を重ねその時期から去っていくという意味からも、彼がいなくなるタイミングとして誕生日はある意味適切だった。

ただ一つ、原美術館の最後の展示は一緒に行こうって約束したのに。
私はしばらく悶々としていた。いくら分かっていたとはいえ、頭で理解して自分に納得させることはそう簡単ではなかった。
いくら待てど返信はこない。そして彼の11月の誕生日が迫っていた。私は前日に、区切りをつけるために一人でそこへ行くことを思いつく。そしてやはり心のどこかで、もしかしたら会えるかもしれないという未練があった。
思いついたのが前日ということもあり、予約制の今、中に入れないことはある程度覚悟していた。しかし、ちょうどキャンセルが出て一人なら入れるということで案内をしてもらえた。

原美術館の建物そのものが懐かしく愛おしかった。一番初めの部屋にリーキッドの作品があり、記憶が蘇る。作品を見ながら2階まで上がり、一番奥の最後の部屋を見て、彼がいないことを確認する。がっかりしたような、安心したような不思議な気持ちだった。無意識に呼吸を止めていたことに気づき、ふぅと息を漏らす。そして改めて作品に集中する。

窓の外が絵画のように静謐で緑が濃い。
どこからか季節外れの蝉の声が聞こえたような気がした。
光-呼吸の展示、その軌跡は私達も同じなのかな。昔一緒に通った場所を別々になぞっているのだろうか。
最後にまたピアノの自動演奏をもう一度最初から最後まで見る。庭に面して突き出た小さな半円の部屋。ここに昔の私たちの姿をみた。子供のように純粋にはしゃいで透き通った日差しの下で一緒に歩いた日々の事。ピアノが人の動きをなぞるように、私は過去の思い出の場所をなぞって、なんとか、自分を言い聞かせて納得させようとしている。消えないと思うんだ。思い出は。自分の根底のところも。
久しぶりに展示を見て心がふるえた。揺さぶられるものがあった。
外に出て、しばらく呆然としていた。


私は多分これから前を見て、過去ではなく今現在の自分を見て生きていこうとしている。そしてその選択は正しいと思っている。
でも君と過ごしたあの日々は、心の奥底にある大切な宝物入れのような場所に大事にしまっておこうと思うんだ。明日、原美術館は終わってしまうし一緒に行く約束は果たせなそうだけど、原美術館そのものも、きらきらした懐かしいものとして一緒にしまっておく。
前を見て、さよならするために。

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