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痩せないとダメ、でも痩せ過ぎてもダメ?おもちゃ映画『バービー』が描く、女性が生きる綱渡りな人生について考える

2023年夏、ピンクのドレスを着て、メイクをバッチリ決めて映画館に向かうのが英語圏における今夏最大のイベントの一つになった。もちろん映画『Barbie(バービー)』を観るためだ。

フェミニズムの教科書と言っていいほど、娯楽に全振りしないフェミニズム要素てんこ盛りな映画だ。今年の映画の中でもトップクラスと言っていい今作を長い解釈や感想という形では深掘りせず、海外ではこの映画がどのように受容されたか、そしてあまり日本では語られない魅力とキーポイントについて言及したい。

*以下映画とドラマシリーズ『The Good Place』のネタバレを含む*


プロジェクトの変遷

そもそもバービープロジェクトは紆余曲折を経て、数年前までは最終的にこのような作品になるなんて誰も予見できなかっただろう。この映画を待ち侘びていたファンにとっては周知の事実だが、制作会社によって、たくさんのライターの間をたらい回しにされてきた。

まずジェニー・ビックス(Jenny Bicks)が脚本を離れる。『What a Girl Wants』や『Sex and the City』のエピソードを何話か担当したやり手だ。そして、2015年にソニーのエイミー・パスカル(Amy Pascal)にディアブロ・コーディ(Diablo Cody)がジョイン。彼女は映画『Juno』などで知られる。そして3人新たに脚本家が追加されるも、コーディは2018年にプロジェクトを離れる。コーディはインタビューで当時を振り返り、制作が座礁した理由の一つに、その頃はfemme(女性的な見た目や振る舞いを強調するクィア、レズビアンのアイデンティティ)やbimbo (女性のセクシュアリティやハイパーフェミニンな見た目や発言をすることで、反資本主義的な精神を体現する女性、また広義にそのようなキャラクター)が受け入れられにくい時代だったと話している。

主役もpop feminism的なジョークで有名なエイミー・シューマー(Amy Schumer)やアン・ハサウェイ(Anne Hathaway)の噂もあったが、結果マーゴット・ロビー(Margot Robbie)となった。マーゴットは今作のプロューサーにも名を連ねる。


時代のフェミニズムの雲行きやファンダムの反応が、バービーの行く末に多大な影響を与えてきた。当時はコーディが言うように、Girl Boss feminist的なアプローチを求められ、映画制作を結実させることができなかったとインタビューで振り返っている。

男性的な社会で、力強い女性像を描くことが求められたが故にバービーをバービーらしく描くことができず、intersectionalismと女性らしさが融合したhpyer feiminismの視点が持ちづらかった。ということは、2023年の今、よりhyper feminist的な女性像が一般に浸透してきたことがグレタ・ガーウィグとノア・バームバックのバービーの成功に繋がったのだろうか。

おもちゃとしてのバービー

バービーの元ネタ

バービーの産みの親ルース・ハンドラー(Ruth Handler)はポーランド出身の移民家族出身で、娘のバーバラが紙人形で遊んでいるのを見てバービーを開発したと言われている。

また、彼女はバービーのモデルとして、ドイツの大人向けのジョークグッズであったBild Lilliの造形をお手本にし、デザインを再考して販売した。Lilliはドイツの漫画家Reinhard Beutheinが寄稿していたBild-zeitungというタブロイドに出てきたのが起源。Lilliは戦争後に現れた富裕層の男性を標的にするgold digger(お金目当ての女性)でウィットに富んだキャラクターだった。映画『The Wolf of Wall Street』で、gold digger的な役を演じたマーゴット・ロビーが、今回バービーの役を演じるのは面白い縁だ。


バービーと現代社会

バービーが世に出る前、女の子はbaby doll(赤ちゃん人形)を与えられることが多く、幼少期から母親になるためのトレーニングをさせるかのようなおもちゃが台頭していた。しかし、バービーはそれを変えた。若く、仕事を持った一人の女性で、見た目も何もかもが”完璧”。ファッションモデルで、最先端のおしゃれな服にお金を使うことができる設定だった。つまり、成人することと、現代で成功した女性が贅沢に何も気にすることなく消費するというイメージを子供達に広める装置でもあったわけだ。

もちろんバービーは時代と共に変化する。科学者、医者、ヨガインストラクターなど職種も増え、なんでも手に入れることができるようになったバービー。女の子はどんな仕事でも好きなだけ自由に選択できる、というイメージが売り方として定着した。バービーは、母性を内面化する時代遅れな赤ちゃん人形とは違い、自由で現代的な働く女性という新しい価値観を醸成した。一方で、子供達に自由に消費する若い女性という価値観を植え付ける資本主義のシステムでもあった。

Bratzドールとバービー

しかし、バービーは決して、どの時代も子供たちのお気に入りだったわけではない。2000年初頭に発売されたBratz dollsは対抗馬の一つだった。過剰に大きい頭、腫れぼったい唇、オーバーサイズな靴。Bratzは当時バービーを販売するMattel社でバービーの服のデザインをしていたカーター・ブライアント(Carter Bryant)によって創られ、ライバル会社のMGAによってアイデアを買われ発表された。やがて、MGAとカーターはMattelに訴えられることになるのだが、とにかくBratzは飛ぶ鳥を落とす勢いの売れ行きでバービーを脅かした。
ネタバレになるが、実は今回の映画の中にBratzのオマージュが隠されている。グロリア(Gloria)の娘のサーシャ(Sasha)の名前はどうやらBlatzの一人からとっているらしい。Blatzも四人、Sashaの友人グループも四人だ。グレタからのイースターエッグという噂である。

バービーの今

細いウエストと異常に長い足というアンバランスな体型は子どもに間違ったボディイメージを与えると常々問題になっていた。今のバービーは、批判を受けポリコレの波に乗ってブランドを刷新している。現在バービーは、9つの体型と、35の皮膚の色、97のヘアスタイルがあるらしい。さらには、有名人のバービーもあり、ヘレン・ケラーやフリーダ・カーロ(…笑)なども揃えている(trailblazer barbie = 先駆者モデルと一般に呼ばれる)。多様性をバービーに積極的に取り入れようとするMattel社。しかし、本当に意味のある取り組みなのか。新しくなった体のサイズや形、本当に現実を反映知っているのか。

バービーの与える影響はボディイメージだけではなく、子供のキャリア選択と現実社会の認知にも関係しているらしい。ある研究では、バービーで遊んだ女の子は、Mr.&Mrs Potatoで遊んだ女の子と比較して、男の子よりも自身のキャリアの選択肢は少ないと考えていると回答した。先行研究も少なく因果関係を主張するのは難しいが、バービーの非現実的な体型や完璧なイメージが、人形遊びの世界と現実社会とのギャップを強調してしまっているのだろうか。

上の世代と比較して今の親が子供に与えるおもちゃは多種多様になっただろう。ノンバイナリーでジェンダーニュートラルなおもちゃを選択する両親も増えているはず。それらが子供の認識にどのような長期的な影響を与えるのかも研究がさらに望まれる。

次はマテル・シネマティック・ユニバースの時代?

バービーは、夏のブロックバスターであり、フェミニズム映画であり、おもちゃ映画でもある。『Transformers』(2007)や『Battleship』(2012)など、これまでもおもちゃを映画にした作品はあった中で、過去作品はどちらかというと男の子向けのおもちゃに偏っていた。女の子をターゲットにしたおもちゃとしてのバービーを映像作品として、しかもMumblecore出身(低予算の若い白人中産階級について描くインディペンデント映画)のグレタ・ガーウィグ(Greta Gerwig)を脚本と監督に起用しているのは、ハリウッドおもちゃ映画の特異点であると言っていいだろうか。

しかし、バービーは決して子供向けの映画とも言えない。大人がセンチメンタルになって観に行くという需要の方が多そうだ。一方で、親と子どもが一緒に観に行く家庭はどのくらいあるのだろう。親が連れて行くとなると、トランスフォーマーなどの方が一緒に行きやすい気もする。

Mattel社はバービーを皮切りに、IPビジネスを展開していく予定だ。Mattelの映画事業を仕切るMattel Filmsの代表は『Dallas Buyers Club』(2013)のプロディースで知られるロビー・ブレナー(Robbie Brenner)。キャリアに大きな舵を切った彼女の手腕も期待される。

Mattel社のおもちゃを題材にした映画はこれからどんどん出てくる。ワーナーはHot WheelsをJ.J. Abramsに撮らせるし、カードゲームのUNOの映画も制作される予定だ。Rock'Em Sock'Em ではヴィン・ディーゼルが主役らしい。最近ではNetflixが『Masters of the Universe』の制作をやめる決断をしたばかり。バービーはどうやら成功したが、次の作品は果たして成功するのだろうか。もしかしたらバービーが上記の作品に出てくるなんてこともあるかもしれない。これからのマーベル・シネマティック・ユニバースならぬマテル・シネマティック・ユニバースに注目だ。


映画で押さえておきたいポイント

なぜ男性は、友達でいさせてくれないのか

映画ではケンとバービーの関係に見られるように、主に男性が持つ男女関係についての先走りした思い込みや前提を振りかざした結果ギクシャクしてしまうことで生じる現象が描かれる。それらは現実世界でもよく目の当たりにする光景だ。

「泣いてるの?」
「彼氏、彼女だから」

ヘテロセクシュアルな男性は、強いジェンダー観に基づいて行動し、なおかつ相手に完璧な女性であることを求める。そして、勝手に一人で暴走して、拒否されると、思わせぶりな行動をしたなと、そうではないだろうと、完璧な女性でないことを批判する。

自分勝手で都合がよければ良いというのが大半の男性の思考回路なのだろうか。もちろん、プロポーズをしてもらって嬉しい女性もいるだろうし、逆にこっちのタイミングを考えないでプロポーズするな、と思ってる人もたくさんいるに違いない。ケンのように”long distance, low commitment, casual"な関係が理解できない人もいれば、そんな曖昧な関係がしっくりくるタイミングもあるのだろうか。

とにかく、当たり前のように男性が日常で使うフレーズについて改めて考えさせてくれるのが今回の映画だった。そして、女性が、"女性"であるが故に日常の中で目の当たりにする差別や違和感、なれるはずもない"完璧な女性"についてcognitive dissonance(認知的不協和)を抱えるという日々のリアルも描いた。映画でも言及されたが、自由に将来について考えたいのだが、それを女性としての生きづらさが邪魔をしている。可愛くなければいけないが、可愛すぎてはダメ、という矛盾の綱渡りを24時間強いられている。そしてうまくいかない男女関係もそんな問題を再醸成してしまうという負のスパイラルがある。


Male gaze とfemale gaze。そしてエモーション

典型的なバービーは完璧主義から目を覚まし、芽生えたself consciousnessにより、”カワイイ”ハイパーフェミニンな要素と"おかしくて暗い"という二つの側面は両立してもいいことに気づいていく。

Male gazeによって理想化された女性像の化身のようなバービーが、平たい足やセルライト、そして現実世界での女性蔑視に戸惑う姿は、家父長制が女性であることの認知的不協和の元凶であることを示唆する。そして、ありのままの自分を愛すること、"不完全"で大丈夫、なりたい自分になっていいという認知的不協和と向き合うところも描く。

一方で、female gazeと男性のアイデンティティ形成についても考えさせられる。簡単にまとめると、男性にとって女性からの好意的な視点・承認というのが、自尊心よりアイデンティの存続に強く結びついてしまっていることを映画では指摘している。バービーに拒否されたケンは、すぐ傷つき、孤独になり怒りやすくなる。そして代わりに見つけたのが家父長制というのがこの映画の筋書きだ。ともあれ、男性の実存的危機が女性による性的・社会的な不承認と密接であるというのは一度じっくり考えてみたいポイントだ。

バブルの中で生きること

映画の特徴として、外の世界を認識し、内の世界を出るという構成がある。映画内で引用までされた『マトリックス』、最近の映画『Don't Worry Darling』、そして古くは『トゥルーマン・ショー』。漫画では、進撃の巨人、約束のネバーランドも同じ作りだ。

快適なバブルの中にある生活と環境。自分は生きているのか、それとも生かされているのか。あれ、自由意志と決定論のお話?彼女の生きるバービーランドとドリームハウスの本質と、それらがバービーにどのような影響を与えるのか考えてみるのも映画をより理解する手助けになるかもしれない。

Immortalがmortalになる映画

「バービーは、ピノキオやくるみ割り人形だ。」みなさんはどこまで同意するだろうか。完全ネタバレになってしまっているが、映画のオチはバービーが人間になって人間世界にいくところで終わる。これらの作品のあらすじを辿ればどれも全然違う話と結末なのだが、人形と人間のテーマは似通っている。

話は変わるが『The Good Place』というドラマをご存じだろうか。そう、このドラマのエンディングも全く一緒で、人間的アイデンティティに目覚めた悪魔が人間になりお話は終わる…

マザーフッドと女性のアイデンティティ

母親としての認知的不協和はそこまでこの映画では触れられなかった。グレタの『Ladybird』では、母と子の交流と関係性は大きなテーマであり、彼女の得意とするところだ。しかし、グロリアを非白人の働く母親という設定にしたのにも関わらず、映画では女性として生きることについて焦点が当たりすぎて、母親のフェミニズムが薄められたような印象を受けた。バービーは母親にはならないので余計、グロリアのような女性をバービーの"片割れ"に設定したことの説得力は下がってしまう。

バービー映画と社会

バービーは資本主義をハックできる?

今回の映画は、資本主義をハックしたフェミニスト映画なのだろうか(ちなみにMattelはフェミニズム映画ではないと言っている…)。この辺の議論は、他でもたくさんの人が議論しているので深くここでは書かない。ただ、どんなに映画が批判的であろうと、それはMattelの利益に貢献してしまうのは少なからず事実だ。
なぜなら、この種の資本主義批判は、そのシステム自体の脆弱性を指摘することで、それを増幅させる。批判は吸収され、資本主義のシステムは崩壊どころかアップデートされ、巧妙になっていく。

これは、バービーの非現実的な体型が若い女性のボディイメージ認識に与える影響や多様性の無さを批判されて、新しいシリーズを出したことと重なる。映画もこのフィードバックループの歯車の一つなのだろうか、というのは各所で熱く議論されている…

バービーの生みの親もジェンダー化された身体に囚われていた?

ルース・ハンドラーは、会社を追われたあと、乳がんになってmastectomy(乳房切除手術)を受けている。さらにはその経験からNearly Meというがんサバイバーのためのprosthetic breast(人工乳房)を提供する会社を設立した。ガーウィグは、リサーチをしている時この話にとても影響を受けたと話してる。

この話は、見た目の変化などから実存危機に陥ったバービーと接続するという点で映画のテーマと深く関係している。乳房という、女性、母親としての身体的特徴(母性などの象徴でもある?)を無くしたというとても痛ましい経験をし、さらにはそれを補う人工乳房を自身で開発したハンドラーから、ジェンダー化された身体とアイデンティが相互補完的であることを示唆しているとも言える。

"完璧な女性"でなくなったことから、アイデンティティクライシスになったバービーは、現実社会で年老いたハンドラーに会う。そこで、バービーは彼女のことをとても美しいと言う。ジェンダー化された身体の完全性と女性としてのアイデンティティの接続を断ち切っても、生きていることの美しさは失われないことに気づく。ともあれ、バービーの体はプラスチックなのでどこまで行っても"fake"なのだが。表面的にはきれいでも本質はそこにはない自意識に芽生えた人形としての悲しさがある。

さて、私たちのジェンダー化された体を、私たち自身は一体どうやって再定義できるのだろうか。身体そのものを否定するのではなく、それを新しい視点で捉え直す。みなさんはどうお考えですか?

最後に

以上、いくつかの映画表現&テーマとして、海外で語られていることや、個人的に深く考えてみたいと思う点をまとめたが、共演者やファッション、特にkencoreについても書きたかったがまた違う機会に。そしてよろしければコーヒー一杯分ご支援いただけれると嬉しいです。


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