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私とヘルパーたちの話

気管切開をした2017年2月から平日は24時間ヘルパーの介助のもと生活している。最近になって土日も埋まりつつある。

ヘルパーと利用者の関係はいろいろあると思うが、ウチの場合少なくとも友人や家族の一員みたいな、そんな和気あいあいとした関係ではない。

もともと誰とでも話すような性格ではないところに「話せない」という不便さが加わって、積極的にコミュニケーションを取ろうという気になれないことが大きな理由だ。

また、結果的に近しい関係になるのはもちろんいいんだけど、私は「私とヘルパーは私が望む生活を実現するためのメンバー」だと位置づけているので、まずは余計なことを考えず、その目的に集中してほしいという気持ちもある。


そんな私とヘルパーたちの話をしたいと思う。


一応言っておくんですが、私の経験に基づいた話に関して、すべての利用者やすべてのヘルパーに当てはまることを書いているわけではないので、「それは違う」と言われても困る。私にとっては事実なので。


この話は2019年頃から2024年上半期までの約5年半の、私とヘルパーたちのことを私目線でまとめたものです。


さて。
重度訪問介護ヘルパーには大きく分けて2通りの働き方があります。

一般的なのが、訪問介護事業所(事業所)に所属して事業所から各ご家庭に派遣され、勤怠管理(シフト調整など)は事業所が行うパターン。契約は利用者と事業所間で交わされる。

ヘルパーの休みに別のヘルパーが代行できるように交代要員を一枠あたり一人以上確保することを理想としているが、昨今のなり手不足の影響で確保が難しいのが現状。よって、利用者が複数の事業所と契約し、事業所間で交代要員を融通し合う場合が多いのではと推測する(ウチはそうしてる)。しかし急な欠員の場合、結局どの事業所も代行を立てられず家族対応となることがほとんどだ。



もうひとつは、事業所に登録はするものの、契約は利用者とヘルパー間で交わされ、基本的にヘルパーの募集や勤怠管理は利用者が行うパターン。休みの日に代わりのヘルパーが見つからなければ、他に事業所と契約していない場合は家族対応となる。

こちらは「自薦ヘルパー(自薦)」と呼ばれ、利用者本人が活動的で常に家族でヘルパーの代わりができる人が在宅しているご家庭が利用する場合が多い。よって、自薦だけでシフトを組むと家族の負担が重すぎるため、大半が前者のような事業所とも契約し、一般的なヘルパーと自薦の混合シフトを組んでいるはずである。

ウチは前者の「複数の事業所の一般的なヘルパー」のみでシフトを組んでいる。

後者の自薦はいわば専属ヘルパーなので細かなリクエストがしやすいし、ヘルパー自身も専属であることを理解しているので細かいリクエストを受け入れやすいのではと思う。可能な限り自由に行動したい!という人には最適かと思う(代行できる人がいる前提にはなる)。研修も利用者が納得するまで行うことも相手の同意を得れば可能だろう。

一方で、前者の一般的なヘルパーは一利用者につき週一勤務が基本なので複数の利用者の元で働いているのが普通。それもあって介助の難易度や利用者の言動、家族の態度などを他の利用者と比較して目の前の利用者を見ている。

一般的なヘルパーは割とカジュアルに辞退ができるので、研修が長引いたり「合わないな」と感じたらあっさり辞退していくことがある。極力それを避けるために研修期間の短縮や介助の単純化は利用者にとって重要な仕事になる。もちろん利用者本人の言動に最も配慮が必要だ。

一般的なヘルパーを利用する利用者には「ヘルパーの辞退や事業所の撤退」という暗黙のプレッシャーがあるのは事実で、自薦と比べると利用者のリクエストは多少、自重気味になるかもしれない。

ちなみに、私は療養生活を送る上でいくつかの決め事を自分に課しているが、そのうちの一つが「ヘルパーがどんな人でも断らない」で、ヘルパーが辞退しない限りどんな人でも絶対断らないと決めている。ヘルパーのなり手不足が続く中で、妻の仕事や今の生活を維持するためには必要な決め事だと思っている。

では、一般的なヘルパーのみのウチは我慢を強いられながら生活しているのかというと決してそんなことはなく、「複数の事業所の一般的なヘルパー」では質の高い内容なんだろうなと思う。もちろん問題がないわけではないが、今現在11人のヘルパーでシフトを組んでいる中で「突出して安心できる人、安心できる人、ひたむきな人」それぞれが1人以上いるというのはなかなかいい環境ではないかと思っている。

ただ、この環境は「受け入れさえすれば与えられる」という簡単なものではない。ヘルパーを派遣してくれていることは大変ありがたいのだが、ヘルパーがいてくれさえすれば快適な生活が送れるかと言えば決してそうではない。

自分が望む生活と、どういうヘルパーにどのように介助してほしいのかを明確に伝え、それを徹底するように伝え続けなければ求める人材は育たないし求める環境は得られない。

私は介助の手順やルールを「ガイドブック(ガイド)」という文書にしていて、読んでもらえれば伝わるのでまだマシだが、それでも繰り返し「ガイドを参照するように」と伝え続けなければならなかった。

ヘルパーに目指してほしいイメージ
へルパーへ具体的な提示
ガイドの内容

数年前までは、新しくシフトに入る人(新人)が指導役のヘルパーから説明を受けながら介助をしているところに、私が気になるところを説明する形で「仕方なく」指導に参加していた。

ガイドの通り説明してくれればいいのだが、指導役の独自の手順や手技を教えたり、説明が明らかに間違っていたりするからだ。

しかし、私が参加するとべらぼうに時間がかかる。なぜなら私が口文字で伝えるからだ。睡眠前に行う通称「夜ケア」。通常15分程度だが、新人に指導、説明しながら2時間以上かけたこともあった。こんなことが週一だが2カ月ほど続くのだ。これはとてつもなくストレスフルで、私は幾度となく指導役に「おれが説明するんやったらお前いらんやんけ!」とブチギレていた。

我慢も限界を超えると言っちゃならんことを言っちゃうんですよね…。
ALS特有かどうかは知らないが、ALSには情動制止困難という感情のコントロールが困難になる症状もあるらしい。

何であれ、私が感情的になってくると新人も腰が引けてしまうのは当然で辞退する者が多かった。「これはいかん、こんなことでは誰も定着してくれない」と危機感を募らせ、何とか私が口出しせずに指導が進む方法がないかを考えた。

私がブチギレないためには私が限界を超えて我慢するのではなく(ムリ)、私が指導に直接参加しないようにするしかない、というのが私が出した結論だった。

まず、私が望んでいる手順や手技はほぼ全てガイドで言い切っているのだから、ガイドに忠実に指導するよう改めて依頼した。それができれば私は口出しせずに済むはずだ。

しかし、これがまたうまくいかない。

指導役といっても普段はいちヘルパー。指導するために教育を受けているわけではない。それに、数年前までのヘルパーは、ガイドをベースにした介助ではあるが、やっていく間に独自の手順や手技を勝手に身につけてしまう者が多かった。

日常的に行っている介助がガイドと異なる手順や手技なのだから、ガイド通り教えられるわけがなかった。普段から私が注意して修正しとけばよかったのだが、自分が我慢して丸く収まるなら我慢しとこう、という思考になりがちだった。しかし、結果的にこれはまずい収め方だった。

独自の手順や手技でわかりやすいのが「確認をしない」ということだ。
介助とはイコール身体を動かすことと言っていい。当然、私たちは自分で動かすことができないから、決まったこと、例えば「排泄介助では腕はこうして足はこうやる」などと細かく手順と手技を決めて、その通りにヘルパーが私の代りに腕や足を動かしてくれる。

介助手順・上段が「行動」、下段が「補足・注意点」

その手順の要所要所で「本人に確認する」と指示しているのだが、これを人によってはほとんどすっ飛ばして黙々と作業をする。これは「独自の解釈」を超えてただ「好き勝手やる」状態だ。

この「確認しない」ということが、いかに私にとって面倒なことか。
例えば腕を動かした後、もう数センチ肘を外側に動かしてほしい場合、「確認アリ」と「確認ナシ」とでどう違うか比べてみる。

「確認アリ」
①ヘルパーが腕を置いた。
②ヘルパー「腕の位置はどうですか?(これが確認)」
③私「違う(NO)」の合図。
④ヘルパー「肘ですか?(確認する内容と順番が決まっている)」
⑤私「そうです(YES)」の合図。そして動かしたい方向に目を動かす。
⑥ヘルパー「肘を外ですね」と言って動かす。「どうですか?」
⑦私「いいです(YES)」の合図。

「確認ナシ」
①ヘルパーが腕を置いた。
②ヘルパーは次の作業に移る。確認しないから当然こちらの顔を見たりしない。
③私はヘルパーがこちらを見るまで待機。
④ヘルパー「(コールボタンをセット)ボタンどうですか?(これはさすがに確認する)」
⑤私「口文字をする」の合図。
⑥ヘルパー「(メモの準備)どうぞ」
⑦口文字で「イ、イキシチニヒ、ヒ。イ、イキシ、シ、ジ。ヒジ」をやり取り。
⑧ヘルパー「どっちの肘ですか」
⑨私、目を動かす。
⑩ヘルパー「こっちの肘をどうしますか」
⑪私、動かしたい方向に目を動かす。
⑫ヘルパー「こっちの肘を外ですね」と言って動かす。「どうですか?」
⑬私「いいです(YES)」の合図。

肘を数センチ動かすだけです。「確認アリ」なら15秒ほどのやり取りで済むような、そんな簡単なことも「確認ナシ」なだけでジーッと待たされるわけです。ヘタしたら数分。

以前はこういう「独自の解釈」や「好き勝手やる」ヘルパーがいることでフラストレーションが溜まる一方だったのですが、私自身の思考や言動を変えることで状況は少しずつ改善していった。

何をどう変えたのか振り返ってみる。

・「誰かのせい」から「自分のせい」
以前から「自分のせいにすれば楽」という考えは持っていた。
他人の考えや行動を変えることは困難だけど、自分の考えや行動は自分がその気になれば一瞬で変えることができる。他人のことをどうにかしようとあれこれ考えるよりは、自分のせいにして自分にできること、すべきことを考え行動したほうが話が早い。なので、それを徹底するようにした。

・ヘルパーを観察し手技や手順をアップデート
ガイドの改定は年1回程度だが、その1年の間に小さな変更や追加を何度か行う。常にヘルパーを観察し、難しそうな手技や非効率なことはどんどん省いたり変更しながらガイドの完成度を高めていった。
あと、例外はあるが「覚えなければならない」と言わないことにした。私が求める介助を考えた時、手早くやるよりも正確に行うことが重要なので、「覚えなくていい。ゆっくりでもガイドやメモを見ながらできればいい」に変えた。答えを見ながらやるのが一番正確なはずだから。

・指導役も普通のヘルパー
指導役と呼んでいる人も実は普通のヘルパー。指導のために何か教育を受けたわけではない。それは頭ではわかっているのだが、ついきつく当たってしまうのだ。単にウチでの勤務が長く、手技や手順を熟知しているだろうという前提で選ばれた人だ。
でも実際は「独自の解釈」や「好き勝手やる」ヘルパーだったりするので、指導役の指導も兼ねた「OJTマニュアル」を作った。これは私がブチギレないようにするための環境、要するに「私が指導に直接関与しない環境」に誘導する効果も期待して作った。

OJTマニュアル
OJTマニュアル

・問題がどこにあるのかを共有できた
新人研修で辞退する者があまり減らない中、事業所とのあるやり取りの中で「辞退者が減らないのは杉田の目力のせいだ」ということを言ってきた。私の目力が強くて辞退すると言うのだ(目がデカいのは認めるけどさw)。20年以上会社員をやっていたが、仕事を断る理由として初めて聞くものだった。マジかよwと思ったがこれは深刻な状況だと判断して、ケアマネ、相談支援員も交えて「新人の同行研修について」話をすることにした。私は長文の「私の言い分」を用意し、妻に読んでもらった。
要約すると
「私の目力が強くなるような状況を作っているのはあなた方(=指導役へルパー)です」
「私はそういう状況にならないような指導方法を提案し続けていますが、指導を担っているあなた方は全くの無策な上に、私の提案を受け入れたにもかかわらず実行していない」
「私は自分に責任がないなどと考えたことはありませんが、私にのみ責任があるような物言いは到底受け入れられない」
上で「自分のせい」と言ったが、それはそう考えたほうが私の思考、行動が前に進みやすいからであって、指導役に何の責任もないとはもちろん思っていなかった。なんだかんだ言っても指導役は指導役で考えているだろうと思っていたが、まさかの私一人の責任と言わんばかりの物言い。これは黙っていられなかった。
私の言い分に対して「思いもしないことだったが、言われてみればその通りだな」くらいには思ってくれたのかもしれない。この話し合いでこの時の問題点は共有できたんだと思う。
それと、付け足しみたいでアレだが「私の目力で辞退」が多いということ自体は事実で、この事業所がそれを許容しているので仕方がない。この発言者は事実を私に伝えただけで他意は全くないんです(それはそれでどうかと思うがw)。
これ以降、指導の内容をようやく「OJTマニュアル」に寄せてくるようになってきた。すると「独自の解釈」や「好き勝手やる」人は減り、私が指導に直接関わることもなく(=私がブチギレることもなくw)、研修が進むようになり、ウチにもようやく小さな小さな平和が訪れたのでした。


こういった経験を経て、「私にとっていいヘルパー」の要素が見えてきた。いくつかあるが、必須だと思うものを挙げるならこの3つになる。

1つ目は要望を細部まで把握し実行しているということ。
2つ目は介助中の確認が細やかだということ。
3つ目はそれらを継続しているということ。

1つ目について
要望を細部まで把握しているということは、「利用者のリクエストに対して真剣に向き合える人」のこと。聞いたことを実行できる人は「責任感が強い人」のこと。簡単に言うと「仕事をしている人」のことです。

2つ目について
上でも説明しましたが、確認が細やかというのは円滑でストレスのない介助に不可欠な要素であり、そんな確認が細やかな仕事のことを私は「丁寧な仕事」と呼んでいます。

3つ目について
そして、仕事が間違った思い込みのまま惰性にならないように、常に利用者のリクエストを確認し、正しい手順や手技を実行し続ける人。

読めばわかると思いますが、いずれも仕事をするうえで当たり前のことばかりです。何ら特別なことなどないのですが、この当たり前のことをできる人がとても稀なんです。

上の方で「突出して安心できる人、安心できる人、ひたむきな人」と言いましたが、今説明したのは「安心できる人」のこと。これに「気遣いができる」が加わると「突出して安心できる人」になります。

ここで言う「気遣いができる」とは、介助をしていて「これは嫌なんじゃないか」「こうすればもっと楽になるんじゃないか」「自分だったらこうしてほしいんじゃないか」ということに気づき、利用者の想定を超えて心身の負担を軽減することができる、ということです。

そして、こういう人って必ず相談してくる。いいと思ったことでも必ず確認してから行動する。こういうコミュニケーションを怠らない姿勢は本当に安心できます。

でも、こういう「気遣いができる」というあいまいなものを必須の能力としてヘルパーに求めてはいけない、と思ってますし実際求めていません。求めなくてもやる人はやっちゃうってことです。

ウチの「突出して安心できる」ヘルパーは「仕事だから」ではなく、そういうふうに生きている人なんだと思います。見ていてそう思います。

そして「ひたむきな人」というのは、いろいろ苦戦するんだけど、すべて全力投球してしまう人で、なんていうか…気持ちで事に当たる人と言えばいいのかな。今いるその人は、帰る頃にはヘトヘトになっていて、とにかく全力なんです。

その人を見てて思ったのが、こういう人は突出したヘルパーになる可能性を秘めているなぁ、ということ。だから「突出して安心できる」「安心できる」と同列にいるわけです。こういう人がいると、私の話をろくに聞かず自分の好きなようにやる人がより浮き彫りになります。


そろそろ落としどころを決めないといくらでも書けてしまう。やば。

というわけで、数年分のヘルパーたちとのやりとり(攻防?)をザクっとまとめました。
振り返って思うのは「とにかく疲れた」
何度も「もう好きにせーや」と思いましたが、自分の生活を諦めるなら「なぜ延命したのか?」という根本的な選択の話に行きついてしまう。

死んだように生きるならあの時死んでいればよかったんじゃないのか。ドクターも言っていたじゃないか「モルヒネで苦しまないようにします」と。それなのに生きるという選択をした。

困難も想定していた。まぁ、確かにいろんな意味で想定外すぎる困難が次から次へとやってきて苦しかったが、自分がやろうとしていることが、自分らしく生きることを諦めるほど間違っているのか?何度も何度も考えた。でも何度考えても、やっていること、やろうとしていること、その根っこにある考え方、それらが間違っているとは思えなかった。

自分の療養生活について、望んでいることを明確に言語化した。そして、介助の具体的な手順、手技を詳細に文書で残した。文書で残すということが重要で、再現性をいかに維持するかが重要な仕事なのだから、何度でも確認ができるというのはへルパーにしてもメリットしかないはずだ。しかも、介助はその文書を見ながらへルパーのペースでやっていいのだ。これらのことが間違っているとはどうしても思えない。

私が望むこと

自分らしく生きることを諦めずやっとここまで来た。以前より穏やかな日常を思うとすこーし達成感もある。今後もこの状況を維持しなければならないということは、これまでと同じことをやるだけではダメで、考え方は維持しながら少しずつ表現を変えてさらに快適な療養生活を目指そうと思う。


こういったことを書くってことはデメリットしかないが、読む人にはメリットばかりだと思う。チョットだけでも療養者のためになればいいっすね。

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