ALS.jp
ひとりごと
ほんのわずかな山行記録です。
気管切開をした2017年2月から平日は24時間ヘルパーの介助のもと生活している。最近になって土日も埋まりつつある。 ヘルパーと利用者の関係はいろいろあると思うが、ウチの場合少なくとも友人や家族の一員みたいな、そんな和気あいあいとした関係ではない。 もともと誰とでも話すような性格ではないところに「話せない」という不便さが加わって、積極的にコミュニケーションを取ろうという気になれないことが大きな理由だ。 また、結果的に近しい関係になるのはもちろんいいんだけど、私は「私とヘル
今、TVerで情熱大陸を観終わった。 主人公は今年、2024年8月1日に100歳を迎えた「阪神甲子園球場」だった。 放送の中で客席の清掃を担うご婦人が言った。 「甲子園球場が好きですよ、みーんな。入った瞬間、なんやろ、ときめくというか。すごいステキですよ」 この「入った瞬間ときめく」という言葉を聞いて、初めて甲子園のスタンドに入ったその瞬間の光景を思い出した。 小学生だった私は清掃のご婦人が言ったように、その瞬間、ときめいたに違いない。いまだにその景色を鮮明に覚えている
2013年 9月10日 『お疲れさまです。 大変ご迷惑をお掛けしています。 どうやらすべての検査が終了したようで、先生からお話がありました。 やはり、ALSの可能性が高いとのことです。よって、本日から唯一効果があるとされているリルテックという薬を処方されます。 この薬の副作用について経過観察が必要なので退院は12日か13日になるとのことです。なので15日には一時復帰したいと考えています。 妻と姉への説明は明日11日の17時からとなっていて、現時点での検査結果と今後のこと
ギターを弾いていた。 本格的に始めたのは26歳の時だ。奇跡的によい人に出会って教えてもらうことになった。会社に入って5年目。仕事はめちゃ忙しかったが少しでも上手くなりたくて寝る時間を削って練習した。ギターを抱えたまま寝落ちしたことも一度や二度じゃない。そして、出来はともかく、師匠とライブもできた。 山に登っていた。 その場にいた二人と共に勢いで六甲全山縦走大会に出ると決めてしまった。そのトレーニングで箱根を歩いて運動と絶景の気持ちよさにドはまりした。タバコを止めスクアットを
今現在、体が動かなくなっても毎朝東の空を撮影できている。 そんな私が写真を撮ろうと思ったきっかけから今日に至るまでをだらだらと書いていく。 「写真」というものを旅行や遊び以外で意識したのは仕事でだ。 1990年代の後半だったと思う。 当時、うちの会社(結構大きな葬儀社)には広報や商品開発を担う部署がなく、営業本部が営業所の要望を取りまとめ、印刷会社などに依頼してイベント告知のチラシなんかを作ったり、私がいた部署が副業的にオプション商品を考えたりしていた。 私の部署は、社葬
もう20年前くらいになるか。 母には、アルコール依存症の娘さんがいる友人がいた。 今でも付き合いがあるかは知らない。 その娘さんは私が話を聞いた時にはかなり重症化していたようで、家族がなるべく外に出さないようにしていたようだ。 母にもそれまで話してなかったらしい。母は何かを感じ取ったようで、その友人に聞いた。 「あなた、恥ずかしいと思ってるの?」 勿論そんなことは思ってないと言う。しかし母は問いただす。 「じゃあなんで今まで内緒にしとったん」 家のことやから…
小学5年だったと思う。 家に誰かが来て玄関で母が何やら話をしたあと、私のところに来て「ちょっと来なさい」と言う。 「なんかやったかな…」と不安な気持ちで玄関に行くと、知らないおばさんが立っていた。 「こんにちは(ペコリ)」と、とりあえずあいさつした。 おばさんは私を見てうれしそうな表情をしたように見えた。 母が説明しだした。話はこうだ。 このおばさんのまだ低学年の息子さんが「宇宙戦艦ヤマト」の絵を描いてほしいと、毎日毎日相当な熱量で訴えるのだが、ヤマトは複雑すぎて
皆さん、こんにちは。 さて、ここに書いてあるように私がALSを発症して10年になります。今回その10年を振り返ってみて、よくここまで来れたなぁと感慨深いものがありました。その10年をどう皆さんに話せばいいのか考えがまとまらなかったので、お世話になっているケアマネに「どんなことが知りたいですか」と尋ねてみたら、「全てが知りたい!」とおっしゃったので、少し悩みましたが、すべてが凝縮された最初の4年間を中心にこの10年のことをできるだけ「すべて」を話したいと思います。 制度の
人それぞれ生きてきた道程が違う だから生きていく上で価値観が違うし人生の目的や目標も違う あるべき自分ありたい自分というものもあるだろうし ALSは今持っているその全てを奪うかもしれない それでも新しい自分を受け入れて 以前と同じように生きている人は確実にいる 「なぜ生きてるんですか」 どんな身体になろうと 生きるだけの価値があるからにきまってるやんw
「K」 ロボット刑事やなくて三振でもないよ。 KOREAのKね。 Kのエンタメと言えばアイドルグループの「BTS」や「TWICE」をイメージする方も多いでしょうし、実際アジアにとどまらず世界中で人気を博していますよね。 しかしわたくし、そっちのKは全く興味がなくて「TWICE」も調べたら一番上に出てきただけで…。 じゃぁなんの「エンタメパワー」やねん!と言ったらそれは映像作品のことなんです。 2020年のアカデミ-賞で韓国映画の 「パラサイト」 が英語作品以外
安楽死。 ALSに限らず難治性の病の患者でこのことを考える人は少なくないと思う。 しかし、日本では法律が整備されておらずできないことになっている。 また、病によって「死にたいほど生きるのが辛い」人が少なくないと思われるにもかかわらず、議論も行われていないと言っていい状況だ。 私は「死にたいほど生きるのが辛い」人には安楽死という選択肢があっていいという考えだ。 一方で、法整備できたとしてもそれはには何十年も先だろう、とも思うので現実的ではないのかも。 なんにせよ、議
出会っといてよかった 八ケ岳では寝袋の件はあったものの、ヒザに問題はなくますます山ン中で過ごすことにハマる私は次の縦走に備えてちょこちょこお山に入ります。 縦走荷物を背負って丹沢やロープウエイを利用しての北アルプス、中央アルプスなど軽めではありますがテクテク歩いておりました。 そうやってだましだまし中毒症状に対処していましたが、やっぱりがっつり歩きたくなるわけで。 山の秋が終わろうとしている10月。 もうすぐ雪が降る時期なのでそのあたりも考慮した結果、南アルプス主脈の
念願の山域へ 鳳凰三山では色々なことがあったけど、ヒザ痛を克服したという嬉しさが、反省する謙虚な気持ちを遥か彼方に追いやってしまっていた私は、すかさず次の山行計画に着手しました。 八ヶ岳に行くことは鳳凰三山後すぐに決めていました。 ヒザが治るまでは…そう思って封印していたのが八ヶ岳でした。そう考えるほど八ヶ岳はヤバいところで自分みたいに弱点(ヒザ痛)があるヤツは行っちゃいけない。そう思っていました。 その弱点のことを考えなくてよいということで鳳凰三山からわずか1週間後、
鳳凰三山縦走ラスト 朝陽を浴びながら稜線を進む。 快晴無風。人はまばら。 気持ちいいとかありきたりの言葉では表現できない爽快感。 周りの景色を堪能しながら悠々と歩く。 陽も高くなり、劇的な眺めを堪能できる時間は過ぎていた。 クライマックスは過ぎ、あとはゴールに向かって淡々と進んでいくのみ、、、この時はそう思っていた。 間もなく観音ヶ岳に着くというところで、大きな岩と地面の隙間に咲くタカネビランジを見つけた。 花は指先に隠れるほどの大きさだ。 雄大な自然の造形
不思議な感覚 2012年7月30日 2時過ぎに目が覚めた。 オジサンの寝言で1回起きたけど6時間くらいは寝た。 当然まだ真っ暗な中、飯の準備をしながらテントの中を片付ける。 暖かくて寝袋が邪魔なほどだったが、初テント泊は快適だった。 ご来光を稜線で拝むべく、4時過ぎに出発する。まだ薄暗くてよくわからないが天気は良いようだ。 ヘッドランプを点けて樹林帯を登っていくと、木々の隙間からうっすら明るくなってきた東の空が見えた。 天気は良く雲海が広がっていて、空はオレンジ色に染
衣食住を背負って ゼェ、ゼェ、ゼェ、、、、、、まじでヤバい… これまで経験したことがないほど息が上がり、「このまま倒れてしまうのではないか」という恐怖すら感じる。 胸が苦しい。頭がぼーっとする。 間違いなくまずい状態だ。 とりあえず足を止めて息を整えることに集中する。 2012年7月29日 少し寝坊したため今回の起点となる夜叉神駐車場に着いたのは10時頃だったと思う。空はどんより曇っているがそれは承知の上で、天候は回復傾向なので翌日の天候に期待をかける。 準備を