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宇宙戦艦ヤマトと鳥山明

小学5年だったと思う。

家に誰かが来て玄関で母が何やら話をしたあと、私のところに来て「ちょっと来なさい」と言う。

「なんかやったかな…」と不安な気持ちで玄関に行くと、知らないおばさんが立っていた。

「こんにちは(ペコリ)」と、とりあえずあいさつした。

おばさんは私を見てうれしそうな表情をしたように見えた。

母が説明しだした。話はこうだ。

このおばさんのまだ低学年の息子さんが「宇宙戦艦ヤマト」の絵を描いてほしいと、毎日毎日相当な熱量で訴えるのだが、ヤマトは複雑すぎておばさんの手に負えない。そういう話をご近所さんにしたところ、

「1号棟の杉田さんとこの息子さんが漫画を描くのが上手らしい」

と教えてくれたらしく、それで杉田さんとこの息子さん=私にヤマトを描いてもらおうと訪ねて来た、というのだ。

見ず知らずの人の家まで行って子供が欲しがっている絵を描いてもらうためにお願いするって、今じゃ考えられないし、当時としても凄いことだなと感心させられる。

確かに自分の周りの子の絵を見てみると自分は結構上手だな、とは思っていたが、自分の全く知らないところで、しかも大人が自分のことをそんな風に見ていた、ということに驚いた。

もしかしたら、その話を横で聞いてた同学年の誰かが「あいつ描けるで」って言ったかもしれないが、今となっては藪の中。

「描いてあげたら?あんた得意やん」

そう母が言ったが、言われなくても描く気満々だった。

ヤマトはもうヘタしたら千回くらい描いた得意中の得意の題材だ。

目をつむってても描ける、とまではいかないがそれくらい自信があった。

「どこから見たヤマトがいいですか?」と、構図を聞いてみたが、わからないから任せるというような返事。

それでこんな感じのヤマトを描いてお渡しした。背景、着色はナシで鉛筆のみ。

すると後日、そのおばさんがお礼にと私が描いたヤマトに着色して、それをプリントした小さい手提げバッグを持ってきてくれた。

うれしかった。誰かのために初めて描いた絵。しかも「描いてください」と頼まれたのだ。うれしいに決まってる。

それが「宇宙戦艦ヤマト」だった。

それ以降、以前からあった思いだが、より強く思うようになった。

「漫画家になりたい」



そんなことがあった頃のある日、友達が「スギショー!」と言って走ってやってきた。

ちょっと興奮した様子のその子の手には週刊少年ジャンプがあった。

「今週のジャンプ読んだか?」その子は早口でまくし立ててきた。

「まだ買ってないわ」

「今週から始まった新連載のやつ、むっさおもろいねん!」

「そうなん?どれ?」表紙を覗く。

「これや!」そのページを開いてくれた。

そこには一見して強烈なインパクトを残す独特の画風の扉絵があった。

「Dr.スランプ」

「鳥山明」


そう書かれていた。

早速買って読んだ。

確かにむっさおもろい。ゲラゲラ笑った。

しかし、私の関心はもっぱらその画力に向けられていた。

「こんなうまい絵(緻密で創造性ある絵、という意味)を描く漫画家、見たことないぞ」

注:当時、週刊連載でここまで描き込んでいる作家は大友克洋くらいだった。この時はお子ちゃまだったので大友克洋を知らなかったのだ。

「衝撃」とはこのことで、画力には自信があり、それを根拠に漫画家になりたいと思っていた私は、その圧倒的な画力の前に自信など消し飛んでいった。

「おれが漫画家とか絶対無理やな」

ここで奮起して「なにくそ」と踏ん張れる人は可能性が残る人。

私はどちらかというと踏ん張ったほうだと思う。この時は。

以前から暇さえあれば何かしら描いていたが、初めて誰かのために描いた「宇宙戦艦ヤマト」、そして「Dr.スランプ」の衝撃以降、さらに描きまくっていた。誰かが止めてくれないと止まらないほど描いていた。

画力だけでは漫画家にはなれないんだと思い知るまでは(画力もまぁ大したことない)。

でも絵を描くことが役に立つ仕事を得たわけだから描いててよかったし、今となってはそこに向かわせてくれたものすべてに感謝しなくてはならない。


鳥山明先生。

先生のことを知った44年前のその日その時のことを、今でもはっきりと覚えているほど先生の漫画は10歳の私にとってヤバい衝撃でした。

どうぞ安らかにお眠りください。

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