同じ「書く」でも逆方向の頭を使っているnote
最近、note投稿が滞っている。書けていない。
ネタがない、とか、億劫というのともちょっと違って…。
言い訳がましいけど、自分の中でわかったことがあった。
私だけの問題かもしれないし、みんな当たり前にわかっていることかもしれないけれど、近況報告がてら(だれも待ってない)、書いておこうと思う。
削ぎ落して研磨する"企画書思考"
2か月くらい前から、企画書の作成に追われている。
わりとスケールの大きい構想で、前例のないことも含まれるプロジェクト。
これまで、書籍やイベントの企画書は数えきれないほど作成してきたけれど、今回はいわゆる「わかりやすい形」が説明しにくいシロモノ。
それだけに、頭の中でのイメージを「言語化」「可視化」することに一苦労している。
イメージを口頭では説明できても、「文字化」することはまた別。
企画書は、私は、A4で1~2枚にまとめることを信条としている。
読む相手が読む気が失せずに読み切れる長さに、という表面的な理由もあるけれど、何よりも目的は、相手に企画に興味を持ってもらい、共通理解に進めるため。
・理屈が通っていること
・目的やメリットが明確であること
・誤解のない的確な表現をすること
・企画の背景や思いが伝わること
これらを網羅したうえで、簡潔にしなければならない。
端的な言葉で、簡潔にまとめられない企画は、人に伝わらず、それは企画として弱い証拠。
端的にインパクトのある企画書が書けたら、それは強い企画。
私はこれをバロメータにして、企画書を研磨する。
私にとって、企画書の研磨は、相手に伝えるため、と同時に、企画そのもののためでもある。
企画書の言葉数が多くてまとまりがない状態は、企画としてまだ練る、というか研磨の余地があるということ。
研磨の過程では、より簡潔な表現を探したり、フレーズをまとめたりしているうちに、象徴的でインパクトのあるキーワードが見つかったりする。
こうして、ぼんやりしていた輪郭がグッと際立ち、色合いや方向がハッキリしてくる。
伝えたい熱意があればあるほど「盛り」たくなるが、ここは余分なものを削ぎ落して、もっとも重要な部分が際立つようにするイメージ。
とにかく削る。ブラッシュアップ。明瞭に。コンパクトに。
これは不思議なことに、頭の中だけではダメで、書いて可視化することで成しえる作業。
端折りすぎても伝わらないし、盛り過ぎてもぼやける。
特に今回は、イメージが即物的ではないだけに、そぎ落としの取捨選択に四苦八苦していた。
noteは頭や心を解放する方向
さてnote。
いざ向かい合っても、いまいち脳が働かない。
書くネタがない、というよりも、書こうと思えばネタはあるのに、どう書こうか進まない。
物理的にnoteの時間がないということもあったけど、どちらかというと、書く頭の動きが鈍っている気がした。
もしかして。気づいた。
書く頭が、「ひたすら研磨の企画書思考」になっているのかも。
noteは、私にとっては「解放」の方向。
考えや気づきを思うままに解放していく感覚。
ギューッと煮詰めていく企画書とは、思考の方向が真逆なのだ。
私の中では、煮詰まったものをフワーッと広げて解放するのがnote。
長年の仕事で、言葉を研磨するクセがついていたので、noteでは、なるべく「思うまま」に自由に書こうと心がけていた。
そういえば、今回のような大掛かりな企画書を作成したのは、久しぶりだった。
もしかしたら、逆にしばらくnoteの解放思考のクセがついていて、今回の企画書に四苦八苦したのかもしれない。
仕事/遊び ではなくて、「書く思考」の方向の違いを初めて実感した。
しばらくは、スイッチの切り替えが必要になりそう。
単に頭が鈍ってるだけ?
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