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完璧な人間

血気盛んな昔に比べて、僕も随分と怒らない人間になりましたよ。
若い頃の怒り狂う荒くれ者だった自分とはまったくの別人なくらいに。笑

それでも僕はいくつもの不徳を重ね、
狭い周りの世界で他人や仲間を傷つけたり、
また世の中にそこかしこに小さく絶望しながら
深く傷ついて生きてきた未熟で若輩な時期を乗り越えてきました。

振り返ってみればよくわかります。
そんなしんどい日々を知らぬ間に乗り越えて
ささやかな希望や周りからの寵愛や、
仲間や愛する人と過ごす充実した時間の力で、
何かをひとつひとつ克服してきたのだということを。

「怒る」という行為は、ほとんどの場合、
大切な何かを隠してしまうものです。
相手よりも自分が上に立っているような錯覚。
「だからあいつはダメなんだ」
「なんであんな奴に」
「なんにもわかっちゃいないよな」
すべて自分が振り向きながら相手を見下す行為に他ならないのですね。

前を向いて人として成長しようという本来の自分の抱いていたいはずの感覚はそこにはどうやっても介入できない。
もちろん「ルーキーズ」や「スクール・ウォーズ」みたく愛を持って「怒る」という青春の時期にだけ許される状況もあるにはあります。
でも、基本的に誰かの至らない行為に激怒したりすることは、自分の成長には何の徳も生み出さない、と今ならよくわかるのです。
それよりも、それによって生じた事態をどうやって修復して進めるのがいいのかを考えることの方が大切だと大人になって初めて感じるわけなんですね。

「完璧な人間」とはなんだろうと考えます。
すべての事柄を合理的にそつなくこなし
人の期待にきちんと応え
自分を律して世の中の仕組みや戒律から脱することのない人間。。。

いるのか。本当に。そんな人間が(笑)。
いるのだろう。たぶん。涙w

でもそんな一般的な「完璧な人間」の条件を書き出してみても、
ちっともそんな人間になりたいと思わせるような文言は含まれない。
結局人はそれぞれが描き抱く「完璧な人間」像への道を、ふらふらと彷徨うように歩き続けるものです。

最初から「完璧な人間」への血経限界を持ち合わせていない僕らは、
ひとつひとつの愚的要素を克服してゆかなければならない宿命を背負っています。
でもそれは本当にひとつひとつ克服してゆかなければならない代物であって、なにかをまとめて一足飛びに克服出来るようには残念ながら作られていないのですね。

しかも困ったことに克服出来るとも限らない。笑
そして一つ克服したと思った途端に次の新たなる克服目標が立ち塞がったりすることもあります。w
果てしないイタチごっこ。
でもそれでも、何かを克服しようと進むしかないのだと思うのです。
そしてそれは「自分自身が愛せる自分」になるための旅でもあるわけなんですね。

「完璧な人間」=「自分にとっての理想の人間」=「大好きな自分のカタチ」。

今でも日常の小さなことにムカついたりするけれど、
今でもそんな「つまらない怒り」を克服したいと願う日々です。
ひとつのことを克服するのに何十年もかかっているのですけれどもね(笑)。
でも年齢とともに徐々に、そう、徐々にそうなってるのは分かるし。
それは「慈悲」に繋がり、そこから「愛」へと深く繋がる鍵のような気もしててね。
うん。宗教じゃなく(笑)。

「大好きな自分のカタチ」に向かって、まだまだ精進というわけですな。



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