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がんサバイバーとして生きる②

・6人一部屋での入院生活

2001年1月16日に急性リンパ性白血病の診断を受け、闘病生活が始まりました。
(当時の治療記録をこの前のフォローアップ外来の時に簡単に付けてもらいました📔)

病室には同世代の男の子や女の子たち、また僕らよりも小さい赤ちゃんのような子との六人部屋での生活でした。入院しての治療自体は大体4カ月ほどで、その間は同じメンバーでの入院生活でした。

闘病生活が始まってすぐに、同室のみんなと打ち解けあい、一人っ子の僕にとって兄弟ができたような気持ちになりました。本当に仲良く過ごしたことをよく覚えています。

日中は基本的にベッドの上で一日を過ごすわけですが、同部屋の彼らと話したり、家から持ってきてもらったおもちゃで遊んだりと楽しく過ごしていました。中でも鮮明に覚えていることは…
当時、向かいの病室と挟んで廊下にテレビが一台あり、よく録画したビデオをそれぞれ持ってきて流していました。母曰く、向かいの心臓外科の病室の少し年上の子たちと、僕達は仮面ライダーを見るかドラえもんを見るかでよく争っていたそうです。(笑)
そんな中私の一番のお気に入りは当時の人気ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」でした(笑)
5歳の僕がそれをあまりにも熱中して見ている姿に当時の看護師さんや病室の友達たちも戸惑っていたのを覚えています(笑)

そんなしょうもない思い出もあるくらいに、日々のつらい治療の中にも、笑顔を忘れることのない闘病生活を送ることができました。

・辛い抗がん剤治療

治療は化学療法という抗がん剤による薬物療法を受けました。
当時の辛かった治療で、真っ先に思い浮かぶのがマルクです。
マルクとは骨髄穿刺(こつずいせんし)と言って、太く長い針を体内に刺し、骨髄の組織を採取する検査で、毎回うつ伏せ状態で腰に針を刺し腸骨からその組織を採取します。
想像して貰えばわかるように、骨に針を刺すという、大激痛を伴う検査です(笑)
大人でも泣き叫ぶ人が多いこの検査、もちろん僕も毎回あたりに響き渡るくらいの大声で絶叫していました。

ほんまにめちゃくちゃ痛いんです😂

これは退院してからの外来でも続きましたが、毎回泣き叫ばなかった時、涙を堪えれた時には、看護師さんがミッキーなどが描かれた手作りのイラストテープをくれていたので必死に戦いました。
なんだかんだ初めて全く泣かなくなったのは小3の時でしたが、、、(笑)

これは今となっては笑い話でしかありませんが、ほかにも忘れることのない本当に辛い瞬間をたくさん経験しました。

 

・初めて感じた死への恐怖

先ほども述べた通り、辛い治療の中でも楽しく過ごしていましたが、ただ一つどうしてもいやなことがありました。

「エンビラ」という、特別な空調設備を使用し透明なカーテンで仕切られる無菌室です。抗がん剤治療の中で、白血球が減少し感染症の起こりやすい状態飲みになるため、外界からの感染を予防するための処置です。
いつものベッドと変わらずただ透明なカーテンで仕切られているだけで、一見そこまで変わりはないように思えます。しかしたった一枚のその薄いカーテンは当時の僕にとっては、家族や周りとの繋がりを絶ってしまう厚い壁のように感じさせていたのです。

小さなベッドをカーテンで囲まれる圧迫感は、ストレスとなって、当時の僕の心の中に少しづつ確かに積み重なっていきました。

そしてある日、母や同室の子のお母さんが来てくれていた時に、積もり積もった感情が爆発し、周りにあったウルトラマンや戦隊ヒーローのおもちゃを全て投げ飛ばし泣いて暴れてしまったのです。

エンビラが僕を、繋がりが切れる=死とさえ言えるような思いにしてしまいました。
楽しい日々とはいえ、確かに感じる死への恐怖や周りとの繋がりがなくなるのではという孤独感は本当に厳しく辛いものでした。 

いま振り返ると、どれだけ母を辛くさせ、傷つけたのだろうと思うこともあります。子どもながらに親への気遣いもあったと思いますが、それでも抑えられないくらい、募る孤独感は大きなものだったのです。

しかし、その一件のおかげで、たまっていた感情も吐き出すことができ、その後は、抗がん剤の副作用の吐き気やしんどさにも負けず、闘病生活を送ることができました。 

・小さい僕の必死の闘争

入院中は白血球が減ってきて抵抗力が弱くなると食事にも制限がかかります。基本的に生ものは食べることができません。生もの(火を通していない野菜や果物、お刺身など)には、細菌などの病原体が多く含まれているからです。
しかし治療が進み白血球の数値が上がると生物食べれるようになります。

僕は幸い順調に数値もよくなり途中から晩ご飯に
ミカンが付いて出されるようになりました。でも実際は体に合わず、主食のうどんの後にミカンを食べると毎回必ず吐いてしまっていました。
当時の病室では周りの子たちは治療も骨髄移植をしたりと一進一退でした。そんな中唯一僕だけミカンを食べていたのです。当時の小さな彼らの中ではいつしか、ミカンが食べれる=病気が治ったって証拠やと思っていたんです。
実際はそんな簡単なことではないんですが😅
だからそれに応えるように、これ以上食べたらすべて吐いてしまうとわかりながらも、5歳の僕は僕なりに気張って、みんなの為にもと、毎回必ずミカンまで食べていたんです。結局それでゲロゲロに吐いてばっかしてたんですが(笑)
そうした自分なりの必死の努力も意味があったかはわかりませんが(笑)

無事に退院し、通院での外来治療に移行していきました。
(③へ続く)

#エッセイ #日記 #闘病記 #小児がん #白血病 #病気 #自分らしく #振り返り #ソーシャルワーク

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