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症例A

 17時。テラス席は、すでに早めに仕事を切り上げたビジネスマンや、若い女性グループで半分ほど席が埋まっている。ビジネスビルが立ち並ぶ一角にある、このカフェでは、昼の暑さが嘘のように、すでに冷たい夜気が辺りを満たし始めている。スピーカーからは、ミュートされたトランペットの乾いた音色がかすかに聞こえる。空には、オレンジと紫の残照が複雑なグラデーションを描いている。

「冷えてきたから奥の席に移動しようか?」男は女に問いかける。
「大丈夫、上着を持ってきたから」と女はカバンを指差す。
男は、ピンク色のシャツの袖ボタンを外し、少し捲り上げた。暑いわけではない。手持ち無沙汰なのだろう。
「この店そろそろアルコールも飲めると思うけど・・」男はコーヒーカップを啜りながら言う。
「お酒は最近辞めたの」と女。
「君は最近色々辞めたんだな・・・どうして精神科医を辞めたんだ?気に入ってたんだろう?」
「『心理カウンセラー』を辞めたの。・・・まあどちらでもいいけど」女は切長の目を少し細めて微笑む。
「心理カウンセリングを行う人は、遅かれ早かれ精神を病む。それが分かったから辞めたの。薬物療法は確かに有効だけど、患者をいつまでも薬漬けにするわけにはいかない。心のバランスを崩している根本原因を取り除かない限り、病気の完治はあり得ない。完治させるには、患者の置かれた状況分析、その状況下での患者の反応、行動、ストレス度合いのチェックが欠かせない。つまり私の目は一種のスキャナーのようなものね。そのスキャナーはいずれ自分自身にも向けられる。患者の心理に肉薄すればするほど、それは自分自身にエコーのように返ってくる。その反響がいつかハウリングを起こして、どちらが誰の反応だか判別がつかなくなるの」女はスプーンでコーヒーをかき混ぜながら言う。

コーヒーはとっくに冷めきっている。カラカラとスプーンとカップの衝突音が虚に響く。
ぼんやりと女の手元を眺めながら男は呟く。
「汝が深淵を覗き込む時、深淵も汝を覗き込む・・・ニーチェか。少し興味があるな、君が今までどんな症例の患者に出会ってきたのか」

「私はもう心理カウンセラーじゃないけれど、倫理的には彼らに対する守秘義務は保持されるべきだと思う。だからこれはあくまで例え話として聞いてね・・・」女は念を押すように声を潜めて言う。

「その男性は、そうね、仮にTさんとしておきましょう。Tさんは長年ホテルに勤めていて、朝晩の生活が逆転しているの。でもあまりそれ自体は苦じゃなかったみたい。彼いわく、若い頃から昼夜逆転した生活をしていたそうだから・・」
女はカップから視線を上げて耳を澄ませる。救急車のサイレンが、カフェの喧騒をすり抜けて薄らと聞こえてくる。

「彼の毎日は、判を押したように正確。彼の勤務時間は深夜だから、帰宅後、毎朝10時に就寝して、19時に起床。それを何年間も続けていたから、19時直前になるといつも自然に目が覚めたって。でも不思議なことだけど、目覚まし時計をかけ忘れた時は、19時に目が覚めないんだって・・なぜかしらね?」

男は答えない。コーヒーに浮かんだ油膜の行方に気を取られている。
「もしかして時計の起動前の動作音が原因かと思うでしょ?でもスマートフォンを目覚まし替わりに使い始めても同じだったみたい・・・あっ、ごめんなさい、話を元に戻すわ。それほど正確に睡眠時間を守ってきたTさんだけど、ある時、17時に目が覚めてしまったんだって。いつもより2時間も早いので二度寝しようとしたけどさっぱり眠くならない。結局その日は二度寝するのは諦めたの」
辺りはすっかり日が暮れて、いつのまにか街灯が灯されている。空気も随分冷えてきた。女はバッグから取り出した上着を羽織る。

「退屈な話でしょ?でも問題はここからだったの。その日から、Tさんの起床時間がどんどん短くなっていったの。次の日は15時に目が覚めた。その次の日は13時。そして次の日はとうとう11時・・・」
男は黙って俯いたまま、鍵の束をいじっている。女の話を聞いているのかは分からない。

「次の日の朝9時、彼は私のクリニックを訪ねてきた。自分の睡眠時間がどんどん短くなっていて、不安でたまらないと」
男は鍵をポケットにしまい、女を見つめて言う。
「・・私の睡眠時間は正確に2時間ずつ短くなっている。9時間、7時間、5時間、3時間、1時間・・・次は-1時間後に目が覚める、と・・・」
女は驚いた表情で男を見つめ返す。
「どうして知ってるの?」

「・・・・その男は僕だよ」
「・・・・そうだったかしら・・・」女は誰に言うとでもなく呟く。
「ええ・・・そうだったかも・・・あなたは言った。『私はいつものように10時に寝た。そして寝る1時間前に起きたのだ』と・・・」
男は女を見た。しかし彼女の顔は、背後の闇に溶け込むように朧げで、表情は判然としなかった。
「段々と思い出してきた・・・僕はその日睡眠を取らずに君に会いに行った。でも、もしかすると僕はいつも通り朝10時に就寝して、朝9時に目覚めて、君のカウンセリングを受けているんじゃないか、そう思ったんだ。あの日から知らないうちに自分の時間が失われ続けているんじゃないか、そんな不安が消えないんだ・・」

テラス席はすっかり客で埋まり、喧騒が満たしていた。しかし、その中でも男には、女のかき混ぜるスプーンの音がハッキリと聞こえていた。

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